・・・ぬかるみを飛び越え、石ころを蹴散らし、往来どめの縄を擦り抜け、五味ための箱を引っくり返し、振り向きもせずに逃げ続けました。御覧なさい。坂を駈けおりるのを! そら、自動車に轢かれそうになりました! 白はもう命の助かりたさに夢中になっているのか・・・ 芥川竜之介 「白」
・・・が、保吉が煙草を啣えると、急に彼自身のマッチを擦り、その火を保吉の前へ出した。保吉は赤あかと靡いた焔を煙草の先に移しながら、思わず口もとに動いた微笑を悟られないように噛み殺した。「難有う。」「いや、どうしまして。」 大浦はさりげ・・・ 芥川竜之介 「保吉の手帳から」
・・・ 婆さんは額の皺を手で擦り、「はや実にお情深い、もっとも赤十字とやらのお顔利と申すこと、丸顔で、小造に、肥っておいで遊ばす、血の気の多い方、髪をいつも西洋風にお結びなすって、貴方、その時なんぞは銀行からお帰りそうそうと見えまして、白・・・ 泉鏡花 「政談十二社」
・・・お座敷のウ真中でもウ、お机、卓子台の上エでなりとウ、ただ、こいに遣って、すぅいすぅいと擦りますウばかりイイイ。菜切庖丁、刺身庖丁ウ、向ウへ向ウへとウ、十一二度、十二三度、裏を返しまして、黒い色のウ細い砥ウ持イましてエ、柔こう、すいと一二度ウ・・・ 泉鏡花 「露肆」
・・・ 口を極めてすでに立ち去りたる巡査を罵り、満腔の熱気を吐きつつ、思わず腕を擦りしが、四谷組合と記したる煤け提灯の蝋燭を今継ぎ足して、力なげに梶棒を取り上ぐる老車夫の風采を見て、壮佼は打ち悄るるまでに哀れを催し、「そうして爺さん稼人はおめ・・・ 泉鏡花 「夜行巡査」
・・・ それですから、その苦しみます時傍に附いていて、撫で擦りなどする事は誰も怪我にも出来ません。病人は薬より何より、ただ一晩おちおち心持好く寐て、どうせ助らないものを、せめてそれを思い出にして死にたいと。肩息で貴方ね、口癖のように申すんです・・・ 泉鏡花 「湯女の魂」
・・・手と膝頭を擦り剥いただけでしたが、私は手ぶらで帰っても浜子に折檻されない口実ができたと思ったのでしょう、通りかかった人が抱き起しても、死んだようになっていました。 ところが、尋常三年生の冬、学校がひけて帰ってくると、新次の泣声が聴えたの・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・時には畠の土を取って、それを自分の脚の弱い皮膚に擦り着けた。 塾の小使も高瀬には先生だった。音吉は見廻りに来て、鍬の持ち方から教えた。 毎日のように高瀬は塾の受持の時間を済まして置いて、家へ帰ればこの畠へ出た。ある日、音吉が馬鈴薯の・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・取るに足らぬ女性の嫉妬から、些かの掠り傷を受けても、彼は怨みの刃を受けたように得意になり、たかだか二万法の借金にも、彼は、(百万法の負債に苛責まれる天才の運命は悲惨なる哉などと傲語してみる。彼は偉大なのらくら者、悒鬱な野心家、華美な薄倖児で・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・ お絹は蔭でそうは言っても、面と向かうと当擦りを言うくらいがせいぜいであった。少し強く出られると返す言葉がなくなって、泣きそうな目をするほど、彼女は気弱であった。いつかの夜道太は辰之助と、三四人女を呼んだあとで、下へおりて辰之助の立てた・・・ 徳田秋声 「挿話」
出典:青空文庫