・・・ 家浮沈の問題たる前途の考えも、措き難い目前の仕事に逐われてはそのままになる。見舞の手紙見舞の人、一々応答するのも一仕事である。水の家にも一日に数回見廻ることもある。夜は疲労して座に堪えなくなる。朝起きては、身の内の各部に疼痛倦怠を覚え・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・親の許さぬ男と固い約束のあることも判った。お前の料簡は充分に判ったけれど、よく聞けおとよ……ここにこうして並んでる二人は、お前を産んでお前を今日まで育てた親だぞ。お前の料簡にすると両親は子を育ててもその子の夫定めには口出しができないと言うこ・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・ さすがは学校の先生だけあって、隣りに芸者がいても寄りつきもしない、なかなか堅い人であるというのが、僕に対する最初の評判であったそうだ。が、だんだん僕の私行があらわれて来るに従って、吉弥の両親と会見した、僕の妻が身受けの手伝いにやって来・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・富有な旦那の冥利として他人の書画会のためには千円からの金を棄てても自分は乞丐画師の仲間となるのを甘じなかったのであろう。 この寛闊な気象は富有な旦那の時代が去って浅草生活をするようになってからも失せないで、画はやはり風流として楽んでいた・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・が、既に右眼の視力を奪われたからには、霜を踏んで堅氷到るで、左眼もまたいつ同じ運命に襲われるかも計り難いのは予期されるので、決して無関心ではいられなかったろう。それにもかかわらず絶倫の精力を持続して『八犬伝』以外『美少年録』をも『侠客伝』を・・・ 内田魯庵 「八犬伝談余」
・・・それゆえに有難いことでございます。もしわれわれが事業を遺すことができなければ、われわれに神様が言葉というものを下さいましたからして、われわれ人間に文学というものを下さいましたから、われわれは文学をもってわれわれの考えを後世に遺して逝くことが・・・ 内村鑑三 「後世への最大遺物」
・・・ 女房は夢の醒めたように、堅い拳銃を地に投げて、着物の裾をまくって、その場を逃げ出した。 女房は人けのない草原を、夢中になって駈けている。ただ自分の殺した女学生のいる場所からなるたけ遠く逃げようとしているのである。跡には草原の中に赤・・・ 著:オイレンベルクヘルベルト 訳:森鴎外 「女の決闘」
・・・あの堅い土の下にくぐっている時分には、同じような種子はいくつもあった。そして、暗い土の中で、みんなはいろいろのことを語り合ったものだ。「早く、明るい世の中へ出たいのだが、みんながいっしょに出られるだろうか。」と、一つの種子がいうと、・・・ 小川未明 「明るき世界へ」
・・・ 併し古い例であるが、故独歩の作品中のある物の如きは、読んでいると、如何にも作者自身が自然に対して思った孤独と云った感じが、一種云い難い力を以て読者の胸に迫るのを感ずる。独歩その人が悠々たる自然に対して独り感じたんだなと思うその姿がまざ・・・ 小川未明 「動く絵と新しき夢幻」
・・・じっと前方を見凝めたまま相変らず固い口調で、「いいえ、上手と違いますわ。この頃は気持が乱れていますのんか、お手が下ったて、お習字の先生に叱られてばっかりしてますんです。ほんまに良い字を書くのは、むつかしいですわね。けど、お習字してますと・・・ 織田作之助 「秋深き」
出典:青空文庫