・・・文学者は科学の方法も事実も知らなくても少しもさしさわりはないと考えられ、科学者は文学の世界に片足をも入れるだけの係わりをもたないで済むものと思われて来たようである。 しかし二つの世界はもう少し接近してもよく、むしろ接近させなければならな・・・ 寺田寅彦 「科学と文学」
・・・自分が寝ようとする寝床にはそういう醜いものが寝たかも知れぬ、と思うと、私は其処へ片足を踏入れるのが何ともいいようのないほど厭である。」 これは無論西洋の旅館の話だ。日本の旅館にはそれに優るとも敢て劣らぬ同じ蒲団の気味悪さに、便所・・・ 永井荷風 「夏の町」
・・・靴磨が女の靴をみがきながら、片足を揚げた短いスカートの下から女の股間を窺くために、足台をだんだん高くさせたり、また、男と女とがカルタの勝負を試み、負ける度びに着ているものを一枚ずつぬいで行き、負けつづけた女が裸体になって、遂に危く腰のものま・・・ 永井荷風 「裸体談義」
・・・其機会に流し元のどぶへ片足を踏ん込んだ。戸を開けたのは茶店の女房であった。太十は女房を喚び挂けて盥を借りようとした。商売柄だけに田舎者には相応に機転の利く女房は自分が水を汲んで頻りに謝罪しながら、片々の足袋を脱がして家へ連れ込んだ。太十がお・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・と云いながら、白地の浴衣に片足をそと崩せば、小豆皮の座布団を白き甲が滑り落ちて、なまめかしからぬほどは艶なる居ずまいとなる。「美しき多くの人の、美しき多くの夢を……」と膝抱く男が再び吟じ出すあとにつけて「縫いにやとらん。縫いとらば誰に贈・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・とシワルドが、進めぬ先から腰懸の上にどさと尻を卸す。「今日の晩食に顔色が悪う見えたから見舞に来た」と片足を宙にあげて、残れる膝の上に置く。「さした事もない」とウィリアムは瞬きして顔をそむける。「夜鴉の羽搏きを聞かぬうちに、花多き国に・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・すると耳に手をあてて、わああと云いながら片足でぴょんぴょん跳んでいた小さな子供らは、ジョバンニが面白くてかけるのだと思ってわあいと叫びました。まもなくジョバンニは黒い丘の方へ急ぎました。五、天気輪の柱 牧場のうしろはゆるい丘・・・ 宮沢賢治 「銀河鉄道の夜」
・・・ お節は、礼心に送るのだと云って、乏しい中から、香りの高い麦粉を包んだり、部屋の隅の自分の着物の下に置いてある、近所の仕立物を片したりして、急にいそがしくなった様に体を動かして居た。 翌日馬場の家へ行って、いろいろの事を聞いて来た栄・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
・・・ 花房は右の片足を敷居に踏み掛けたままで、はっと思って、左を床の上へ運ぶことを躊躇した。 横に三畳の畳を隔てて、花房が敷居に踏み掛けた足の撞突が、波動を病人の体に及ぼして、微細な刺戟が猛烈な全身の痙攣を誘い起したのである。 家族・・・ 森鴎外 「カズイスチカ」
・・・ お霜は遅れた一羽の鶏を片足で追いつつ大根を抱えて藁小屋の裏から現れた。「また来たんか?」「また厄介になったんや、すまんが頼むぞな。ええチャボやな。こいつなら大分大っきな卵を産みよるやろ?」「勘はな?」「さア、今そこにう・・・ 横光利一 「南北」
出典:青空文庫