・・・それでは、あの神経過敏の女房というのはこのマダムだったのであろう。「でもあれで何かきっと考えていますよ。」僕にはやはり一応、反駁して置きたいような気が起るのであった。 マダムはくすくす笑いながら答えた。「ええ。華族さんになって、・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
・・・ 百合の花は、何かあり合せの花瓶に活けて部屋に持って来るよう女中に言いつけて、私は、私の部屋へかえって机のまえに坐ってみた。いい仕事をしなければいけないと思った。いい弟と、いい妹の陰ながらの声援が、脊中に涼しく感ぜられ、あいつらの為にだ・・・ 太宰治 「新樹の言葉」
・・・女性の皮膚感触の過敏が、氾濫して収拾できぬ触覚が、このような二、三の事実からでも、はっきりと例証できるのである。或る映画女優は、色を白くする為に、烏賊のさしみを、せっせとたべているそうである。あくまで之を摂取すれば、烏賊の細胞が彼女の肉体の・・・ 太宰治 「女人訓戒」
・・・困り入ってどうしたものかと考えながらその解釈を捜すような心持で棚の上を見ると、そこに一つの白釉のかかった、少し大きい花瓶が目についた。これも粗末ではあるが、鼠色がかった白釉の肌合も、鈍重な下膨れの輪郭も、何となく落ちついていい気持がするので・・・ 寺田寅彦 「ある日の経験」
・・・しかしそのような著しい地殻の古きずが現在の歪に対して時々過敏になりうるであろうと想像するのは単に無稽な空想とは言われないであろう。 それで問題の怪異の一つの可能な説明としては、これは、ある時代、おそらくは宝永地震後、安政地震のころへかけ・・・ 寺田寅彦 「怪異考」
・・・縁に出した花瓶の枯菊の影がうら淋しくうつって、今日も静かに暮れかかっている。発汗剤のききめか、漂うような満身の汗を、妻は乾いたタオルで拭うてくれた時、勝手の方から何も知らぬ子供がカタコトと唐紙をあけて半分顔を出してにこにこした。その時自分は・・・ 寺田寅彦 「枯菊の影」
・・・そして脳が過敏になっているためか、不断はまるで忘れていたような事まで思い出して来る。自分は子供の時から絵が好きで、美しい絵を見れば欲しい、美しい物を見れば画いてみたい、新聞雑誌の挿画でも何でも彩色してみたい。彩色と云っても絵具は雌黄に藍墨に・・・ 寺田寅彦 「枯菊の影」
・・・彼の過敏になった想像はもうそれが立派に生育して花をつけたさまを描いていた。某画伯のこの花を写生した気持ちのいい絵の事をも思い出したりしていた。 再び通りかかった細君に「オイわかったよ、フリージアだよ、これは……」と言って説明しようとした・・・ 寺田寅彦 「球根」
・・・ ヴェランダの上にのせた花瓶代用の小甕に「ぎぼし」の花を生けておいた。そのそばで新聞を読んでいると大きな虻が一匹飛んで来てこの花の中へもぐり込む。そのときに始めて気のついたことは、この花のおしべが釣り針のように彎曲してその葯を花の奥のほ・・・ 寺田寅彦 「沓掛より」
・・・ 食卓には、いつも、切子ガラスの花瓶に、時節の花が挿してあった。それがどんな花であっても純白の卓布と渋色のパネルによくうつって美しかった。ガラス障子の外には、狭い形ばかりの庭ではあるが、ちょっとした植込みに石燈籠や手水鉢などが置いてあっ・・・ 寺田寅彦 「雑記(2[#「2」はローマ数字、1-13-22])」
出典:青空文庫