・・・ もっとも幼時の自分は常に病弱で神経過敏で、たとえば群集に交じって芝居など見ていても、よく吐きけを催したくらいであるから、その時もやはり試験の刺激の圧迫ですでに脳貧血を起こしかけていたために、少しの異臭が病的に異常に強烈な反応を促進した・・・ 寺田寅彦 「試験管」
・・・ことに文句に絶えず頭を使いながらせき込んで印字機の鍵盤をあさる時、ひき慣れないむつかしい楽曲をものにしようとして努力する時、そういう時には病的に過敏になった私の胃はすぐになんらかの形式で不平を申し出した。しかしこれは手や指を使うというよりも・・・ 寺田寅彦 「芝刈り」
・・・卓上の花瓶に生けた紫色のスウィートピーが美しく見えた。 会館前で友人と別れて、人通りの少ない仲通りを歩いていると、向こうから子供をおぶった男が来かかって、「ちょっと伺いますが亀井戸へはどう行ったらいいでしょう。……玉の井という所へ行くの・・・ 寺田寅彦 「蒸発皿」
・・・ピアノが台の下の小滑車で少しばかり歩き出しており、花瓶台の上の花瓶が板間にころがり落ちたのが不思議に砕けないでちゃんとしていた。あとは瓦が数枚落ちたのと壁に亀裂が入ったくらいのものであった。長男が中学校の始業日で本所の果てまで行っていたのだ・・・ 寺田寅彦 「震災日記より」
・・・西洋でも花瓶に花卉を盛りバルコンにゼラニウムを並べ食堂に常緑樹を置くが、しかし、それは主として色のマッスとしてであり、あるいは天然の香水びんとしてであるように見える。「枝ぶり」などという言葉もおそらく西洋の国語には訳せない言葉であろう。どん・・・ 寺田寅彦 「日本人の自然観」
・・・適当な花瓶がなかったからしばらく金盥へ入れておいた。室咲きであるせいか、あのひばりの声を思わせるような強い香がなかった。まもなく宅から持って来た花瓶にそれをさして、室のすみの洗面台にのせた。同じ日に甥のNが西洋種の蘭の鉢を持って来てくれた。・・・ 寺田寅彦 「病室の花」
・・・自分も縁側へ出て新しく水を入れた手水鉢で手洗い口すすいで霊前にぬかずき、わが名を申上げて拍手を打つと花瓶の檜扇の花びらが落ちて葡萄の上にとまった。いちばん御拝の長かったは母上で、いちばん神様の御気に召したかと思われるはせいちゃんのであった。・・・ 寺田寅彦 「祭」
・・・いつかここでたいへんおもしろいと思う花瓶を見つけてついでのあるたびにのぞいて見た。それは少し薄ぎたないようなものであったせいか、長い間買い手もつかずそこに陳列されていた。これと始めのうちに同居していたたくさんの花瓶はだんだんに入り代わって行・・・ 寺田寅彦 「丸善と三越」
・・・理性にも同情にも訴うるのでなく、唯過敏なる感覚をのみ基礎として近世の極端なる芸術を鑑賞し得ない人は、彼からいえば到底縁なき衆生であるのだ。女の嫌いな人に強て女の美を説き教える必要はない。酒に害あるはいわずと知れた話である。然もその害毒を恐れ・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・壁際につッた別の棚には化粧道具や絵葉書、人形などが置かれ、一輪ざしの花瓶には花がさしてある。わたくしは円タクの窓にもしばしば同じような花のさしてあるのを思い合せ、こういう人たちの間には何やら共通な趣味があるような気がした。 上框の板の間・・・ 永井荷風 「寺じまの記」
出典:青空文庫