・・・ 俸給が、その時、戦時加俸がついてなんでも、一カ月五円六十銭だった。兵卒はそれだけの金で一カ月の身ざんまいをして行かねばならない。その上、なお一円だけ貯金に、金をとられるのだ。個人的な権限に属することでも、命じられた以上は、他を曲げて実・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・汝が未来に持っている果報の邪魔はおれはしねえ、辛いと汝ががおもうなら辛いつきあいはさせたくねえから。とさすが快活な男も少し鼻声になりながらなお酔に紛らして勢よく云う。味わえば情も薄からぬ言葉なり。女は物も云わず、修行を積んだものか泣きも・・・ 幸田露伴 「貧乏」
・・・上の姉さんが君に、家宝のモオニングを貸して下さるそうだ。」 家宝の意味が、大隅君にも、すぐわかったようである。「あ、そう。」とれいの鷹揚ぶった態度で首肯いたが、さすがに、感佩したものがあった様子であった。「下の姉さんは、貸さなか・・・ 太宰治 「佳日」
・・・月給六十五円、それと加俸五割で計九十七円五十銭の給金です。金というものの正体不明で相手に出来ないので、損ばかりしています。もう大分借金が出来ました。もう他人の悪口を云い、他人に同情する年でもありますまい、止めます。もう給仕君床に入りました。・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・それが下方に行って再び開いて裾の線を作っている。 浮世絵の線が最も複雑に乱れている所、また線の曲折の最もはげしい所は着物の裾である。この一事もやはり春信以前の名匠の絵で最もよく代表されるように思う。この裾の複雑さによって絵のすわりがよく・・・ 寺田寅彦 「浮世絵の曲線」
・・・その線路の右端の下方、すなわち紙の右下隅に鶯横町の彎曲した道があって、その片側にいびつな長方形のかいてあるのがすなわち子規庵の所在を示すらしい。紙の右半はそれだけであとは空白であるが、左半の方にはややゴタゴタ入り組んだ街路がかいてある。不折・・・ 寺田寅彦 「子規自筆の根岸地図」
・・・駅前の町には「螢五家宝」というお菓子を売る店が並んでいる。この「五家宝」という名前を見ると私の頭の中へは、いつでも埼玉県の地図が広げられる。そうしてあのねちねちした豆の香をかぐような思いがする。 ある町の角をまがって左側に蝋細工の皮膚病・・・ 寺田寅彦 「写生紀行」
・・・これに反して、こんな些細な事実を元にしてこんな無用な空想をたくましゅうしていられるような果報な人間もいるのである。やはり切符をやればよかったのである。 二 エレベーター 百貨店のひどく込み合う時刻に、第一階の昇降機入・・・ 寺田寅彦 「蒸発皿」
・・・しかし、少し見ているうちに、まず一番に目についたのは、画面の中央の下方にある一枚の長方形の飛び石であった。 この石は、もとどこかの石橋に使ってあったものを父が掘り出して来て、そうして、この位置にすえたものである。それは自分が物ごころつい・・・ 寺田寅彦 「庭の追憶」
・・・それから二三日たって気がついて見ると、一つは紙ひもがほどけかかってつぼみの軸は下方の鉛直な茎に対して四五十度ぐらいの角度に開いて斜めに下向いたままで咲いていた。もう一つのは茎の先端がずっと延びてもう一ぺん上向きに生長し、そうしてちゃんと天頂・・・ 寺田寅彦 「藤棚の陰から」
出典:青空文庫