・・・ もし、すこしぐらいの痛さを我慢をして、手術を受けるなら、十分健康を取り返すことができるのを、どうしても、その婦人は、手術を受けることを欲しなかったのです。 季候の変わりめになると、婦人は、青い顔色をしていました。「あなたほどの・・・ 小川未明 「世の中のこと」
坂田三吉が死んだ。今年の七月、享年七十七歳であった。大阪には異色ある人物は多いが、もはや坂田三吉のような風変りな人物は出ないであろう。奇行、珍癖の横紙破りが多い将棋界でも、坂田は最後の人ではあるまいか。 坂田は無学文盲・・・ 織田作之助 「可能性の文学」
・・・ 山椒昆布を煮る香いで、思い切り上等の昆布を五分四角ぐらいの大きさに細切りして山椒の実と一緒に鍋にいれ、亀甲万の濃口醤油をふんだんに使って、松炭のとろ火でとろとろ二昼夜煮つめると、戎橋の「おぐらや」で売っている山椒昆布と同じ位のうまさに・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・自分の部屋の西向きの窓は永い間締切りにしてあるのだが、前の下宿の裏側と三間とは隔っていない壁板に西日が射して、それが自分の部屋の東向きの窓障子の磨りガラスに明るく映って、やはり日増に和らいでくる気候を思わせるのだが、電線を鳴らし、窓障子をガ・・・ 葛西善蔵 「死児を産む」
・・・そして旱の多かった夏にも雨が一度来、二度来、それがあがるたびごとにやや秋めいたものが肌に触れるように気候もなって来た。 そうした心の静けさとかすかな秋の先駆は、彼を部屋の中の書物や妄想にひきとめてはおかなかった。草や虫や雲や風景を眼の前・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
・・・二 昨日も今日も秋の日はよく晴れて、げに小春の天気、仕事するにも、散策を試みるにも、また書を読むにも申し分ない気候である。ウォーズウォルスのいわゆる『一年の熱去り、気は水のごとくに澄み、天は鏡のごとくに磨かれ、光と陰とい・・・ 国木田独歩 「小春」
・・・背の高い骨格の逞ましい老人は凝然と眺めて、折り折り眼をしばだたいていたが、何時しか先きの気勢にも似ずさも力なさそうに細川繁を振向いて「オイ貴公この道具を宅まで運こんでおくれ、乃公は帰るから」 言い捨てて去って了った。校長の細川は取残・・・ 国木田独歩 「富岡先生」
・・・ すべての精神的に貴重なものが、そうであるように、恋愛もまた社会状態、経済的機構のいびつのために、みじめに押しまげられている。恋愛についてこうした理想的な要請をする場合に、私たちはそのことを考えると力抜けがするのを感じる。これはどうして・・・ 倉田百三 「女性の諸問題」
・・・人間もやはり自然界の一存在で、その住んでいる土地に出来るその季節の物を摂取するのが一番適当な栄養摂取方法で、気候に適応する上からもそれが必要で、台湾にいれば台湾米を食い、バナナを食うのが最も自然で栄養上からもそれがよいとのことである。野菜や・・・ 黒島伝治 「外米と農民」
・・・それが、雪の中で冬を過し、夏、道路に棄てられた馬糞が乾燥してほこりになり、空中にとびまわる、それを呼吸しているうちに、いつのまにか、肉が落ち、咳が出るようになってしまった。気候が悪いのだ。その間、一年半ばかりのうちに彼は、ロシア人を殺し、つ・・・ 黒島伝治 「橇」
出典:青空文庫