・・・と云うのは昔青田の畔に奇蹟を現した一人の童児、――金応瑞に国を救わせたからである。 金応瑞は義州の統軍亭へ駈けつけ、憔悴した宣祖王の竜顔を拝した。「わたくしのこうして居りますからは、どうかお心をお休めなさりとうございまする。」 ・・・ 芥川竜之介 「金将軍」
・・・この中でも本を読もうと云うのは奇蹟を行うのと同じことである。奇蹟は彼の職業ではない。美しい円光を頂いた昔の西洋の聖者なるものの、――いや、彼の隣りにいるカトリック教の宣教師は目前に奇蹟を行っている。 宣教師は何ごとも忘れたように小さい横・・・ 芥川竜之介 「少年」
・・・唯神を信じ、神の子の基督を信じ、基督の行った奇蹟を信じさえすれば……」「悪魔を信じることは出来ますがね。……」「ではなぜ神を信じないのです? 若し影を信じるならば、光も信じずにはいられないでしょう?」「しかし光のない暗もあるでし・・・ 芥川竜之介 「歯車」
・・・傍にいる人たちも奇蹟の現われるのを待つように笠井のする事を見守っていた。赤坊は力のない哀れな声で泣きつづけた。仁右衛門は腸をむしられるようだった。それでも泣いている間はまだよかった。赤坊が泣きやんで大きな眼を引つらしたまま瞬きもしなくなると・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・山火事で焼けた熊笹の葉が真黒にこげて奇跡の護符のように何所からともなく降って来る播種時が来た。畑の上は急に活気だった。市街地にも種物商や肥料商が入込んで、たった一軒の曖昧屋からは夜ごとに三味線の遠音が響くようになった。 仁右衛門は逞しい・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・茸を狩るうち、松山の松がこぼれて、奇蹟のごとく、おのずから挿さったのである。「ああ、嬉しい事がある。姉さん、茸が違っても何でも構わない。今日中のいいものが手に入ったよ――顔をお見せ。」 袖でかくすを、「いや、前髪をよくお見せ。―・・・ 泉鏡花 「小春の狐」
・・・九十の老齢で今なお病を養いつつ女の頭領として仰がれる矢島楫子刀自を初め今は疾くに鬼籍に入った木村鐙子夫人や中島湘烟夫人は皆当時に崛起した。国木田独歩を恋に泣かせ、有島武郎の小説に描かれた佐々木のぶ子の母の豊寿夫人はその頃のチャキチャキであっ・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・実に母と子の関係は奇蹟と云っても可い程に尊い感じのするものであり、また強い熱意のある信仰である。そして、母と子の愛は、男と女の愛よりも更に尊く、自然であり、別の意味に於て光輝のあるもののように感ずる。 私は多くの不良少年の事実に就いては・・・ 小川未明 「愛に就ての問題」
・・・ 奇蹟が、あらわれるときは、かつて警告というようなものはなかったでしょう。そして、それは、やはり、こうした、ふだんの日にあらわれたにちがいありません。 青年は、今日もまた空想にふけりながら、沖をながめていました。ふと、その口笛は止ま・・・ 小川未明 「希望」
・・・死ぬときまった人間ならもうモルヒネ中毒の惧れもないはずだのに、あまり打たぬようにと注意するところを見れば、万に一つ治る奇蹟があるのだろうかと、寺田は希望を捨てず、日頃けちくさい男だのに新聞広告で見た高価な短波治療機を取り寄せたり、枇杷の葉療・・・ 織田作之助 「競馬」
出典:青空文庫