・・・あたしは養生して二百歳まで生きる。奇蹟。化石になる頃、皆あたしを忘れる。文章だけに残る。醜い女、二百歳まで生きて、鼻が低かったと。そしてさらに一生冒さず、処女! 殺されればあたしも美人だ。あたかもお化けがみな美人である如く。お岩だっても・・・ 織田作之助 「好奇心」
・・・いやその六年の間生きのびて来たということだけでも、殆ど奇蹟である。当の佐伯にしても、こんな筈ではなかったのだが、おかしいねと、うれしそうな首をひねっている。 もっともこういうことは言っていた。胸の病いなんてものは、ひどく月並みな言い方だ・・・ 織田作之助 「道」
・・・度独参したことがあるがいつも頭からひやかされるので、すっかり悄げていっこうに怠けているのだが、しかしこうした場合のことだから、よもや老師はお見捨てはなさるまい、自分は老師の前に泣きひれ伏しても、何らか奇蹟的な力を与えられたいと、思ったのだ。・・・ 葛西善蔵 「父の出郷」
・・・そう云うことによって、たとえ窃んだものでも、それが奇蹟的に買ったものとなるかのように。 家の中も、通りもお正月らしく森閑としていた。寒さはひどかったが、風はなかった。いつもは、のび/\と寝ていられるのだが、清吉は、どうも、今、寝ている気・・・ 黒島伝治 「窃む女」
・・・小角や浄蔵などの奇蹟は妖術幻術の中には算していないで、神通道力というように取扱い来っている。小角は道士羽客の流にも大日本史などでは扱われているが、小角の事はすべて小角死して二百年ばかりになって聖宝が出た頃からいろいろ取囃されたもので、その間・・・ 幸田露伴 「魔法修行者」
・・・空にある月が満ちたり欠けたりする度に、それと呼吸を合わせるような、奇蹟でない奇蹟は、まだ袖子にはよく呑みこめなかった。それが人の言うように規則的に溢れて来ようとは、信じられもしなかった。故もない不安はまだ続いていて、絶えず彼女を脅かした。袖・・・ 島崎藤村 「伸び支度」
・・・其処で、彼女は仕方なく天地をお創りになった神に向い、どうか、此世にない程の力を授けて下さるように、驚くべき奇蹟で、プラタプに「や! 此がお前に出来ようとは思わなかった」と、喫驚、叫ばせてやることが出来ますように、と祈るのでした。・・・ 著:タゴールラビンドラナート 訳:宮本百合子 「唖娘スバー」
・・・ 奇蹟はやはり、この世の中にも、ときたま、あらわれるものらしゅうございます。 九時すこし過ぎくらいの頃でございましたでしょうか。クリスマスのお祭りの、紙の三角帽をかぶり、ルパンのように顔の上半分を覆いかくしている黒の仮面をつけた男と・・・ 太宰治 「ヴィヨンの妻」
・・・謂わば、私はあの人の奇蹟の手伝いを、危い手品の助手を、これまで幾度となく勤めて来たのだ。私はこう見えても、決して吝嗇の男じゃ無い。それどころか私は、よっぽど高い趣味家なのです。私はあの人を、美しい人だと思っている。私から見れば、子供のように・・・ 太宰治 「駈込み訴え」
・・・人生の冷酷な悪戯を、奇蹟の可能を、峻厳な復讐の実現を、深山の精気のように、きびしく肌に感じたのだ。しどろもどろになり、声まで嗄れて、「よく来たねえ。」まるで意味ないことを呟いた。絶えず訪問客になやまされている人の、これが、口癖になってい・・・ 太宰治 「花燭」
出典:青空文庫