・・・姉が死んだのは、忘れもしない生国魂神社の宵宮の暑い日であったが、もう木犀の匂うこんな季節になったのかと、姉の死がまた熱く胸にきて、道子は涙を新たにした。 やがて涙を拭いて、封筒の裏を見ると、佐藤正助とある。思いがけず男の人からの手紙であ・・・ 織田作之助 「旅への誘い」
・・・濃い藍色に煙りあがったこの季節の空は、そのとき、見れば見るほどただ闇としか私には感覚できなかったのである。 梶井基次郎 「蒼穹」
一 この頃の陰鬱な天候に弱らされていて手紙を書く気にもなれませんでした。以前京都にいた頃は毎年のようにこの季節に肋膜を悪くしたのですが、此方へ来てからはそんなことはなくなりました。一つは酒類を飲まなくなったせいかも知れません。然・・・ 梶井基次郎 「橡の花」
・・・そよ吹く風に霧雨舞い込みてわが面を払えば何となく秋の心地せらる、ただ萌え出ずる青葉のみは季節を欺き得ず、げに夏の初め、この年の春はこの長雨にて永久に逝きたり。宮本二郎は言うまでもなく、貴嬢もわれもこの悲しき、あさましき春の永久にゆきてまたか・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・川村の組は勝手にふざけ散らして先へ行く、大友とお正は相並んで静かに歩む、夜は冷々として既に膚寒く覚ゆる程の季節ゆえ、渓流に沿う町はひっそりとして客らしき者の影さえ見えず、月は冴えに冴えて岩に激する流れは雪のようである。 大友とお正は何時・・・ 国木田独歩 「恋を恋する人」
・・・人間もやはり自然界の一存在で、その住んでいる土地に出来るその季節の物を摂取するのが一番適当な栄養摂取方法で、気候に適応する上からもそれが必要で、台湾にいれば台湾米を食い、バナナを食うのが最も自然で栄養上からもそれがよいとのことである。野菜や・・・ 黒島伝治 「外米と農民」
・・・春から秋へかけては総ての漁猟の季節であるから、猶更左様いう東京からは東北の地方のものが来て働いて居る。 又其の上に海の方――羽田あたりからも隅田川へ入り込んで来て、鰻を捕って居るやつもある。羽田などの漁夫が東京の川へ来て居るというと、一・・・ 幸田露伴 「夜の隅田川」
・・・ 楽しい桃の節句の季節は来る、月給にはありつく、やがて新しい住居での新しい生活も始められる、その一日は子供らの心を浮き立たせた。末子も大きくなって、もう雛いじりでもあるまいというところから、茶の間の床には古い小さな雛と五人囃子なぞをしる・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・ ちっとも秋に関係ない、そんな言葉まで、書かれてあるが、或いはこれも、「季節の思想」といったようなわけのものかも知れない。 その他、 農家。絵本。秋ト兵隊。秋ノ蚕。火事。ケムリ。オ寺。 ごたごた一ぱい書かれてある。・・・ 太宰治 「ア、秋」
・・・ とにかく、わずかな季節の差違で、去年はなかったものが、今突然目の前に出現したように思われるのであった。不注意なわれわれ素人には花のない見知らぬ樹木はだいたい針葉樹と扁葉樹との二色ぐらいか、せいぜいで十種二十種にしか区別ができないのに、・・・ 寺田寅彦 「あひると猿」
出典:青空文庫