・・・ 忠左衛門は、手もとの煙管をとり上げて、つつましく一服の煙を味った。煙は、早春の午後をわずかにくゆらせながら、明い静かさの中に、うす青く消えてしまう。「こう云うのどかな日を送る事があろうとは、お互に思いがけなかった事ですからな。」・・・ 芥川竜之介 「或日の大石内蔵助」
・・・のみならず彼はお蓮を見ると、やはり煙管を啣えたまま、昔の通り涼しい眼に、ちらりと微笑を浮べたではないか?「御覧。東京はもうあの通り、どこを見ても森ばかりだよ。」 成程二階の亜字欄の外には、見慣ない樹木が枝を張った上に、刺繍の模様にあ・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
・・・ か弱い女をいじめるばかりか、悪名を着せるとは怪しからぬやつじゃ。 使 何が悪名です? 小町はほんとうに、嘘つきの男たらしではありませんか? 神将 まだ云うな。よしよし、云うならば云って見ろ。その耳を二つとも削いでしまうぞ。 使・・・ 芥川竜之介 「二人小町」
・・・ヤコフ・イリイッチはと見ると一人おいた私の隣りに大きく胡坐をかいてくわえ煙管をぱくぱくやって居た。へん、大袈裟な真似をしやがって、 と云う声がしたので、見ると大黒帽の上から三角布で頬被りをした男が、不平相にあたりを見廻して居・・・ 有島武郎 「かんかん虫」
・・・沢本 おうい、ドモ又……と、あの、貴様のその上衣をよこせ、貴様の兄貴に着せるんだから。その代わりこれを着ろ……ともちゃん花が取れたかい。それか。それをおくれ、棺を飾るんだから……沢本退場。……戸部ととも子寄り添わんとす。別・・・ 有島武郎 「ドモ又の死」
・・・ 鉈豆煙管を噛むように啣えながら、枝を透かして仰ぐと、雲の搦んだ暗い梢は、ちらちらと、今も紫の藤が咲くか、と見える。 三「――あすこに鮹が居ます――」 とこの高松の梢に掛った藤の花を指して、連の職人が、い・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・ と、納戸で被布を着て、朱の長煙管を片手に、「新坊、――あんな処に、一人で何をしていた?……小母さんが易を立てて見てあげよう。二階へおいで。」 月、星を左右の幕に、祭壇を背にして、詩経、史記、二十一史、十三経注疏なんど本箱がずら・・・ 泉鏡花 「絵本の春」
・・・ち、裁判所、村役場、派出所も村会も一所にして、姦通の告訴をすると、のぼせ上がるので、どこへもやらぬ監禁同様という趣で、ひとまず檀那寺まで引き上げることになりましたが、活き証拠だと言い張って、嫁に衣服を着せることを肯きませんので、巡査さんが、・・・ 泉鏡花 「眉かくしの霊」
・・・「おっかさんの名代だ、娘に着せるのに仔細ない。」「はい、……どうぞ。」 くるりと向きかわると、思いがけず、辻町の胸にヒヤリと髪をつけたのである。「私、こいしい、おっかさん。」 前刻から――辻町は、演芸、映画、そんなものの・・・ 泉鏡花 「縷紅新草」
・・・かわいがったのを恩に着せるではないが、もとを云えば他人だけれど、乳呑児の時から、民子はしょっちゅう家へきて居て今の政夫と二つの乳房を一つ宛含ませて居た位、お増がきてからもあの通りで、二つのものは一つ宛四つのものは二つ宛、着物を拵えてもあれに・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
出典:青空文庫