・・・あの時の事を思えば、まあ、どんなに嬉しかったろう。貴方はもう忘れておしまいなされたか。貴方はわたしを非道い目にお逢せなさいました。ほんにほんに非道いめに。だが、世の中の事は何でも苦痛に終らぬ事は無い。ほんにわたしの嬉しいと思ったその数は、指・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・私は貴方さまにそんなにしていただくほど身分の高いものではございませんですから……第一の精霊 云うでござる、身分の高いものではございませんですから―― 良う御ききなされ美くしいシリンクス殿。 年老いた私共は、その若人のするほどにも・・・ 宮本百合子 「葦笛(一幕)」
・・・ 銃後の力としての女の労働力は、決して貴方が七分、私が三分的な和気あいあい的なものではない。その労作の面で課せられる仕事の実質は、大の男を瞠若たらしめるだけのものなのである。科学主義工業の提唱者は、おおうところなく明言している。例外なし・・・ 宮本百合子 「新しい婦人の職場と任務」
・・・「今其那に女中なんかないのよ。貴方男だから好きになすったって如何かなるには違いないけれど。――私困るわ。――返事位少し沢山したってれんを置いて下さればいいのに。……あの人もあの人ね。私に云うと止められるものだから、まるで狡いわ。ただ行っ・・・ 宮本百合子 「或る日」
・・・諧謔で相手の言い草をひっくり返すというような機鋒はなかなか鋭かったが、しかし相手の痛いところへ突き込んで行くというような、辛辣なところは少しもなかった。むしろ相手の心持ちをいたわり、痛いところを避けるような心づかいを、行き届いてする人であっ・・・ 和辻哲郎 「漱石の人物」
出典:青空文庫