・・・そして、お先きにと、湯殿の戸をあけた途端、化物のように背の高い女が脱衣場で着物を脱ぎながら、片一方の眼でじろりと私を見つめた。 私は無我夢中に着物を着た。そして気がつくと、女の眼はなおもじっと動かなかった。もう一方の眼はあらぬ方に向けら・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・たとえば、卑近な例を挙げてみれば、彼は米琉の新しい揃いの着物を着ていても、帽子はというと何年か前の古物を被って、平然として、いわゆる作家風々として歩き廻っているといった次第なのである。「……それでは君、僕はそういうわけだから、明日の晩は・・・ 葛西善蔵 「遁走」
・・・ 喬は寝ながら、女がこちらを向いて、着物を着ておるのを見ていた。見ながら彼は「さ、どうだ。これだ」と自分で確めていた。それはこんな気持であった。――平常自分が女、女、と想っている、そしてこのような場所へ来て女を買うが、女が部屋へ入って来・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
・・・ 木村は細長い顔の、目じりの長く切れた、口の小さな男で、背たけは人並みに高く、やせてひょろりとした上につんつるてんの着物を着ていましたから、ずいぶんと見すぼらしいふうでしたけれども、私の目にはそれがなんとなくありがたくって、聖者のおもか・・・ 国木田独歩 「あの時分」
・・・栗島は、老人の傷口から溢れた血が、汚れた阿片臭い着物にしみて、頭から水をあびせられたように、着物がべと/\になって裾にしたゝり落ちるのを見た。薄藍色の着物が血で、どす黒くなった。血は、いつまでたっても止まらなかった。 血は、老人がはねま・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・それと引違えて徐に現れたのは、紫の糸のたくさんあるごく粗い縞の銘仙の着物に紅気のかなりある唐縮緬の帯を締めた、源三と同年か一つも上であろうかという可愛らしい小娘である。 源三はすたすたと歩いていたが、ちょうどこの時虫が知らせでもしたよう・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・しかもその中で、あの親孝行ものゝ健吉が「赤い」着物をきて、高い小さい鉄棒のはまった窓を見上げているのかと思うと、急に何かゞ胸にきた。――母親は貧血を起していた。「ま、ま、何んてこの塀! とッても健と会えなくなった……」 仕方なくお安・・・ 小林多喜二 「争われない事実」
・・・主婦というもののない私の家では、子供らの着物の世話まで下女に任せてある。このお徳は台所のほうから肥った笑顔を見せて、半分子供らの友だちのような、慣れ慣れしい口をきいた。「次郎ちゃん、いい家があって?」「だめ。」 次郎はがっかりし・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・その靴や着物の値ぶみをする。それをみな心配げな、真率な、忙しく右左へ動く目でするのである。顔は鋭い空気に晒されて、少なくも六十年を経ている。骨折沢山の生涯のために流した毒々しい汗で腐蝕せられて、褐色になっている。この顔は初めは幅広く肥えてい・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・ ギンは一しょうけんめいに二人を見くらべましたが、二人とも顔も背も着物もかざりも、そっくり同じで、ちっとも見わけがつきません。もしまちがえたらそれきりだと思うと、ギンは気が気ではありませんでした。けれども、いつまで見くらべていても判断が・・・ 鈴木三重吉 「湖水の女」
出典:青空文庫