・・・ まだあの高慢狂気が治らない。梅子さんこそ可い面の皮だ、フン人を馬鹿にしておる」と薄暗い田甫道を辿りながら呟やいたが胸の中は余り穏でなかった。 五六日経つと大津定二郎は黒田の娘と結婚の約が成ったという噂が立った。これを聞いた者の多くは首・・・ 国木田独歩 「富岡先生」
・・・という事を人にして現わしたようなものであったり、あるいは強くて情深くて侠気があって、美男で智恵があって、学問があって、先見の明があって、そして神明の加護があって、危険の時にはきっと助かるというようなものであったり、美女で智慮が深くて、武芸が・・・ 幸田露伴 「馬琴の小説とその当時の実社会」
・・・と云って風雅がって汽車の線路の傍をポクポク歩くなんぞという事は、ヒネクレ過ぎて狂気じみて居ますから、とても出来る事では有りません。して見ると、いくら野趣が減殺されようが何様しようが、今日は今日で、何も今を難じ古を尚ぶにも当らないから、矢張り・・・ 幸田露伴 「旅行の今昔」
・・・こういう妄想を、而も斯ういう長い年月の間、頭脳の裏に入れて置くとは、何という狂気染みた事だろう、と書いたものなぞがあるが、頭脳が悪かったという事は、時々書いたものにも見えるようである。北村君はある点まで自分の Brain Disease を・・・ 島崎藤村 「北村透谷の短き一生」
・・・あの子息の家が倒れて行くのを見た時は、お爺さんは半分狂気のようであったと言われている。しまいには、その家屋敷も人手に渡り、子息は勘当も同様になって、みじめな死を死んで行った。私はあのお爺さんが姉娘に迎えた養子の家のほうに移って、紙問屋の二階・・・ 島崎藤村 「分配」
・・・芸術とは、そんなに狂気じみた冷酷を必要とするものであったでしょうか。男は、冷静な写真師になりました。芸術家は、やっぱり人ではありません。その胸に、奇妙な、臭い一匹の虫がいます。その虫を、サタン、と人は呼んでいます。 発砲せられた。いまは・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・トオキイの音が、ふっと消えて、サイレントに変った瞬間みたいに、しんとなって、天鵞絨のうえを猫が歩いているような不思議な心地にさせられた。狂気の前兆のようにも思われ、気持ちがけわしくなったので、それでも、わざとゆっくりと立ちあがり、お勘定して・・・ 太宰治 「狂言の神」
・・・父の死は肺病の為でもあったのですが、震災で土佐国から連れてきた祖父を死なし、又祖父を連れてくる際の、口論の為、叔父の首をくくらし、また叔父の死の一因であった従弟の狂気等も原因して居たかも知れません。加えて、兄のソシャリストになった心痛もあっ・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・婚礼の祝宴の夜、アグリパイナは、その新郎の荒飲の果の思いつきに依り、新郎手飼の数匹の老猿をけしかけられ、饗筵につらなれる好色の酔客たちを狂喜させた。新郎の名は、ブラゼンバート。もともと、戦慄に依ってのみ生命の在りどころを知るたちの男であった・・・ 太宰治 「古典風」
・・・ と内心ひそかに狂喜したのである。たべたかった。しかし、私はかなりの見栄坊であった。紋附を着た美しい芸者三人に取りまかれて、ばりばりと寒雀を骨ごと噛みくだいて見せる勇気は無かった。ああ、あの頭の中の味噌はどんなにかおいしいだろう。思えば、寒・・・ 太宰治 「チャンス」
出典:青空文庫