・・・もっとも恋愛の円満に成就した場合は別問題ですが、万一失恋でもした日には必ず莫迦莫迦しい自己犠牲をするか、さもなければもっと莫迦莫迦しい復讐的精神を発揮しますよ。しかもそれを当事者自身は何か英雄的行為のようにうぬ惚れ切ってするのですからね。け・・・ 芥川竜之介 「或恋愛小説」
・・・「ふん、犠牲的精神を発揮してか?――だがあいつも見られていることはちゃんと意識しているんだからな。」「意識していたって好いじゃないか。」「いや、どうも少し癪だね。」 彼等は手をつないだまま、もう浅瀬へはいっていた。浪は彼等の・・・ 芥川竜之介 「海のほとり」
・・・ 兄はまた擬勢を見せて、一足彼の方へ進もうとした。「それだから喧嘩になるんじゃないか? 一体お前が年嵩な癖に勘弁してやらないのが悪いんです。」 母は洋一をかばいながら、小突くように兄を引き離した。すると兄の眼の色が、急に無気味な・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・ 倭将の一人――小西行長はずっと平壌の大同館に妓生桂月香を寵愛していた。桂月香は八千の妓生のうちにも並ぶもののない麗人である。が、国を憂うる心は髪に挿したまいかいの花と共に、一日も忘れたと云うことはない。その明眸は笑っている時さえ、いつ・・・ 芥川竜之介 「金将軍」
・・・私は嘗て一つの創作の中に妻を犠牲にする決心をした一人の男の事を書いた。事実に於てお前たちの母上は私の為めに犠牲になってくれた。私のように持ち合わした力の使いようを知らなかった人間はない。私の周囲のものは私を一個の小心な、魯鈍な、仕事の出来な・・・ 有島武郎 「小さき者へ」
・・・あとの四人が画を描きつづけて行く費用を造り出すための犠牲となって俺たちのグループから消え去らなければならないんだ。瀬古 おいおい花田、おまえ気でも違ったのか。僕たちは芸術家だよ。殉教者じゃないよ。花田 芸術のために殉死するのさ。・・・ 有島武郎 「ドモ又の死」
・・・彼は教育とは、時代がそのいっさいの所有を提供して次の時代のためにする犠牲だということを知っている。しかも今日においては教育はただその「今日」に必要なる人物を養成するゆえんにすぎない。そうして彼が教育家としてなしうる仕事は、リーダーの一から五・・・ 石川啄木 「時代閉塞の現状」
・・・ たちまち妙な顔、けろけろと擬勢の抜けた、顱巻をいじくりながら、「ありゃね、ありゃね、へへへ、号外だ、号外だ。」 五「あれさ、ちょいと、用がある、」 と女房は呼止める。 奴は遁げ足を向うのめりに、・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・腮が動く、目が光って来た、となると、擬勢は示すが、もう、魚の腹を撲りつけるほどの勇気も失せた。おお、姫神――明神は女体にまします――夕餉の料に、思召しがあるのであろう、とまことに、平和な、安易な、しかも極めて奇特な言が一致して、裸体の白い娘・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・渠等こそ、山を貫き、谷を穿って、うつくしい犠牲を猟るらん。飛天の銃は、あの、清く美しい白鷺を狙うらしく想わるるとともに、激毒を啣んだ霊鳥は、渠等に対していかなる防禦をするであろう、神話のごとき戦は、今日の中にも開かるるであろう。明神の晴れた・・・ 泉鏡花 「燈明之巻」
出典:青空文庫