・・・藍色の幌を張った支那馬車である。馭者も勿論馬車の上に休んでいたのに違いない。が、俺は格別気にも止めずに古本屋の店へはいろうとした。するとその途端である。馭者は鞭を鳴らせながら、「スオ、スオ」と声をかけた。「スオ、スオ」は馬を後にやる時に支那・・・ 芥川竜之介 「馬の脚」
・・・渠らは貴族の御者なりし。中なる三人の婦人等は、一様に深張りの涼傘を指し翳して、裾捌きの音いとさやかに、するすると練り来たれる、と行き違いざま高峰は、思わず後を見返りたり。「見たか」 高峰は頷きぬ。「むむ」 かくて丘に上りて躑躅を・・・ 泉鏡花 「外科室」
・・・ 三人は毎朝里村千代という若い娘が馭者をしている乗合馬車に乗って町の会社へ出掛けて夕方帰って来るが、その間小隊長は一人留守番をしなくてはならなかった。ある日、三人が帰ってみると、小隊長がいない。迷子になったのかと、三人のうちあわて者の照・・・ 織田作之助 「電報」
・・・一人が馭者台で鞭を持ち、二人が、その後に坐っていた。馬は二頭だ。橇はちょっと止ったように見えた。と、馭者台から舌打ちがして、馬はくるりと反対にまわってしまった。鞭が、はげしく馬の尻をしばく音がした。「逃げるな!」 ワーシカは、すぐ折・・・ 黒島伝治 「国境」
・・・ 入口の扉が開いて、踵の低い靴をはいた主婦が顔を出した。 馭者は橇の中で腰まで乾草に埋め、頸をすくめていた。若い、小柄な男だった。頬と鼻の先が霜で赭くなっていた。「有がとう。」「ほんとに這入ってらっしゃい。」「有がとう。・・・ 黒島伝治 「橇」
・・・「馭者! 馭者!」 ころげそうになる娘を支えて、アメリカ兵は靴のつまさきに注意を集中して丘を下った。娘の外套は、メリケン兵の膝頭でひら/\ひるがえった。街へあいびきに出かけているのだ。娘は、三カ月ほど、日本兵が手をつけようと骨を折っ・・・ 黒島伝治 「氷河」
・・・ がた/\の古馬車と、なたまめ煙管をくわえた老馭者は、乗合自動車と、ハイカラな運転手に取ってかわられた。 自動車は、くさい瓦斯を路上に撒いた。そして、路傍に群がって珍らしげに見物している子供達をあとに、次のB村、H村へ走った。・・・ 黒島伝治 「浮動する地価」
・・・私は、あまりの懐しさに、馭者に尋ねた。「この馬車は、どこへ行くのですか。」「さあ、どこへでも。」老いた馭者は、あいそよく答えた。「タキシイだよ。」「銀座へ行ってくれますか。」「銀座は遠いよ。」笑い出した。「電車で行けよ。」・・・ 太宰治 「新郎」
・・・映画はそれほどおもしろいとは思わなかったが、その中でトロイカの御者の歌う民謡と、営舎の中の群集の男声合唱とを実に美しいと思った。もっと聞きたいと思うところで容赦なく歌は終わってしまう。 「ハイデルベルヒの学生歌」でも窓下の学生のセレネー・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(3[#「3」はローマ数字、1-13-23])」
・・・英国の婆さんは英語のわからぬ御者というものがこの世に存在し得るという事実だけは夢想することも出来ないように見えた。しかし裾野の所々に熟したオレンジの畑は美しく、また日本の南国に育った自分にはなつかしかった。フニクラレの客車で日本人らしい人に・・・ 寺田寅彦 「二つの正月」
出典:青空文庫