・・・クララは苦悶の中に眼をあげてあたりを見た。まぶしい光に明滅して十字架にかかった基督の姿が厳かに見やられた。クララは有頂天になった。全身はかつて覚えのない苦しい快い感覚に木の葉の如くおののいた。喉も裂け破れる一声に、全身にはり満ちた力を搾り切・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・新浪漫主義を唱える人と主観の苦悶を説く自然主義者との心境にどれだけの扞格があるだろうか。淫売屋から出てくる自然主義者の顔と女郎屋から出てくる芸術至上主義者の顔とその表れている醜悪の表情に何らかの高下があるだろうか。すこし例は違うが、小説「放・・・ 石川啄木 「時代閉塞の現状」
・・・(夫人の駒下駄を手にす。苦悶の色を顕いや、仕事がある。雨の音留む。福地山修禅寺の暮六ツの鐘、鳴る。――幕――大正十二年六月 泉鏡花 「山吹」
・・・暖かい夢を柔らかなふわふわした白絹につつんだように何ともいえない心地がするかと思うと、すぐあとから罪深い恐ろしい、いやでたまらない苦悶が起こってくる。どう考えたっておとよさんは人の妻だ、ぬしある人だ、人の妻を思うとは何事だ、ばかめ破廉恥め、・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・さりとて誰にこの苦悶を話しようもなく、民子の写真などを取出して見て居ったけれど、ちっとも気が晴れない。またあの奴民子が居ないから考え込んで居やがると思われるも口惜しく、ようやく心を取直し、母の枕元へいって夜遅くまで学校の話をして聞かせた。・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・ 僕の家は、病人と痩せッこけの住いに変じ、赤ん坊が時々熱苦しくもぎゃあぎゃあ泣くほかは、お互いに口を聴くこともなく、夏の真昼はひッそりして、なまぬるい葉のにおいと陰欝な空気とのうちに、僕自身の汗じみた苦悶のかげがそッくり湛っているようだ。こ・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・近代の忙だしい騒音や行き塞った苦悶を描いた文芸の鑑賞に馴れた眼で見るとまるで夢をみるような心地がするが、さすがにアレだけの人気を買った話上手な熟練と、別してドッシリした重味のある力強さを感ぜしめるは古今独歩である。 二 ・・・ 内田魯庵 「八犬伝談余」
・・・というは、取りも直さず文学のような生柔しい事ではとても自分の最大苦悶を紛らす事が出来ないという意味にも解釈される。 世の中には行詰った生活とか生の悶えとか言うヴォヤビュラリーをのみ陳列して生活の苦痛を叫んでるものは多いが、その大多数は自・・・ 内田魯庵 「二葉亭四迷」
・・・筋とか、時間的の変遷とか云うものを描くのではなくて、そこに自分が外界から受け得た刺戟とか、胸の中の苦悶とかを象徴的に映出するのである。それには無論強烈な色彩を以てしなければならないと思う。 丁度、絵画に於ける色彩派が使うような色で描き現・・・ 小川未明 「動く絵と新しき夢幻」
・・・ 即ち一は此の生活の根柢の何であるかを問わず、只管に日常生活の中に経験と感覚とを求めて自我の充実を希い、一は色彩的な、音楽的な生活の壊滅、死に対する堪えがたき苦悶を訴えんとする二つが出て来ると思う。そして其れ等の何れの芸術に於ても此を一・・・ 小川未明 「絶望より生ずる文芸」
出典:青空文庫