・・・振り向くと、唇の間からたらんと舌を垂れ、ウオーウオーとけだもののような声を出して苦悶していた。驚いて看護婦が強心剤のアンプルを切って、消毒もせずに一代の胸に突き刺そうとしたが、肉が固くてはいらなかった。僕にやらせろと寺田が無理矢理突き刺そう・・・ 織田作之助 「競馬」
・・・自分は心にこれほどの苦悶のあるのを少しも外に見せないなどいうことの出来る男でない。のみならずもし妻がこの秘密を知ったならどうしようと宅に在てはそれがまた苦労の一で、妻の顔を見ても、感付てはいまいかとその眼色を読む。絶えずキョトキョトして、そ・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・子どもの額からは苦悶の汗が血のしたたりのように土の上に落ちました。「神様、私の命をおめしになるとも、この子の命だけはお助けください」 といのると、頭の上で羽ばたきの音がしますから、見上げると、白鳩が村の方に飛んで行って雄牛のすがたは・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:有島武郎 「真夏の夢」
・・・けれども、私は、あなたの作品の底に、いつも、殉教者のような、ずば抜けて高潔な苦悶の顔を見ていました。自身の罪の意識の強さは、天才たちに共通の顕著な特色のようであります。あなたにとって、一日一日の生活は、自身への刑罰の加重以外に、意味が無かっ・・・ 太宰治 「風の便り」
・・・(全く自信を取りかえしたものの如く、卓上、山と積まれたる水菓子、バナナ一本を取りあげるより早く頬ばり、ハンケチ出して指先を拭い口を拭い一瞬苦悶、はっと気を取り直したる態私は、このバナナを食うたびごとに思い出す。三年まえ、私は中村地平という少・・・ 太宰治 「喝采」
・・・ ――フランソワ・ヴィヨン 第一回 一つの作品を、ひどく恥ずかしく思いながらも、この世の中に生きてゆく義務として、雑誌社に送ってしまった後の、作家の苦悶に就いては、聡明な諸君にも、あまり、・・・ 太宰治 「乞食学生」
・・・シロオテは、いかにもしてその思うところを言いあらわし自分の使命を了解させたいとむなしい苦悶をしているようであった。よい加減のところで訊問を切りあげてから、奉行たちは障子のかげの阿蘭陀人に、どうだ、と尋ねた。阿蘭陀人は、とんとわからぬ、と答え・・・ 太宰治 「地球図」
・・・その最後の条に、夫が病気で非常な苦悶をするのを見たすぐあとで、しかも夫の眼前で鏡へ向かってその動作の復習をやる場面がある。夫がそれを見てお前は芸術家だ、恋はできないと言って突きとばすのでおしまいになっている。K君はこれを読んだ時にあまりに不・・・ 寺田寅彦 「自画像」
・・・この夕刊売りの娘を後に最後の瞬間において靴磨きのために最有利な証人として出現させるために序幕からその糸口をこしらえておかなければならないので、そのために娘の父を舞台の彼方で喘息のために苦悶させ、それに同情して靴磨きがたった今、ダンサーから貰・・・ 寺田寅彦 「初冬の日記から」
・・・陳列館には二千年前の苦悶の姿をそのままにとどめた死骸の化石もあったが、それは悲惨の感じを強く動かすにはあまりにほんとうの石になり過ぎているように思われた。それよりはむしろ、半ば黒焦げになった一握りの麦粒のほうがはるかに強く人の心を遠い昔の恐・・・ 寺田寅彦 「旅日記から(明治四十二年)」
出典:青空文庫