・・・まだ前髪の残っている、女のような非力の求馬は、左近をも一行に加えたい気色を隠す事が出来なかったのであった。左近は喜びの余り眼に涙を浮べて、喜三郎にさえ何度となく礼の言葉を繰返していた。 一行四人は兵衛の妹壻が浅野家の家中にある事を知って・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・けれども彼は超然とゴルデン・バットを銜えたまま、Kの言葉に取り合わなかった。のみならず時々は先手を打ってKの鋒先を挫きなどした。「革命とはつまり社会的なメンスツラチオンと云うことだね。……」 彼は翌年の七月には岡山の六高へ入学した。・・・ 芥川竜之介 「彼」
・・・ 僕は葉巻を銜えたまま、舟ばたの外へ片手を下ろし、時々僕の指先に当る湘江の水勢を楽しんでいた。譚の言葉は僕の耳に唯一つづりの騒音だった。しかし彼の指さす通り、両岸の風景へ目をやるのは勿論僕にも不快ではなかった。「この三角洲は橘洲と言・・・ 芥川竜之介 「湖南の扇」
・・・ 老紳士はパイプを銜えたまま、しばらく口を噤んだ。そうして眼を硝子窓の外へやりながら、妙にちょいと顔をしかめた。その眼の前を横ぎって、数人の旅客の佇んでいる停車場が、くら暗と雨との中をうす明く飛びすぎる。本間さんは向うの気色を窺いながら・・・ 芥川竜之介 「西郷隆盛」
・・・すると妻は袂を銜え、誰よりも先に忍び笑いをし出した。が、その男はわき目もふらずにさっさと僕等とすれ違って行った。「じゃおやすみなさい。」「おやすみなさいまし。」 僕等は気軽にO君に別れ、松風の音の中を歩いて行った。その又松風の音・・・ 芥川竜之介 「蜃気楼」
・・・彼は矢部の眼の前に自分の愚かしさを暴露するのを感じつつも、たどたどしく百二十七町を段に換算して、それに四段歩を加え始めた。しかし待ち遠しそうに二人からのぞき込まれているという意識は、彼の心の落ち着きを狂わせて、ややともすると簡単な九々すらが・・・ 有島武郎 「親子」
・・・場主は真黒な大きな巻煙草のようなものを口に銜えて青い煙をほがらかに吹いていた。そこからは気息づまるような不快な匂が彼れの鼻の奥をつんつん刺戟した。「小作料の一文も納めないで、どの面下げて来臭った。来年からは魂を入れかえろ。そして辞儀の一・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・非常なる侮辱をでも妻に加えられたように。「なんだってそんな事を言うのだ。そんな事を己に言って、それがなんになるものか。」肩を聳やかし、眉を高く額へ吊るし上げて、こう返事をした。「だって嫌なお役目ですからね。事によったら御気分でもお悪・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・ その時何と思ったか、犬は音のしないように娘の側へ這い寄ったと思うと、着物の裾を銜えて引っ張って裂いてしまって、直ぐに声も出さずに、苺の木の茂って居る中へ引っ込んだ。娘は直ぐに別荘に帰って、激した声で叫んだ。「喰付く犬が居るよ。お母あさ・・・ 著:アンドレーエフレオニード・ニコラーエヴィチ 訳:森鴎外 「犬」
・・・けだし我々がいちがいに自然主義という名の下に呼んできたところの思潮には、最初からしていくたの矛盾が雑然として混在していたにかかわらず、今日までまだ何らの厳密なる検覈がそれに対して加えられずにいるのである。彼らの両方――いわゆる自然主義者もま・・・ 石川啄木 「時代閉塞の現状」
出典:青空文庫