・・・ 和田は老酒をぐいとやってから、妙に考え深い目つきになった。「しかしあの女は面白いやつだ。」「惚れたかね?」 木村は静かにひやかした。「それはあるいは惚れたかも知れない。あるいはまたちっとも惚れなかったかも知れない。が、・・・ 芥川竜之介 「一夕話」
・・・ 田宮は一盃ぐいとやりながら、わざとらしい渋面をつくって見せた。「だがお蓮の今日あるを得たのは、実際君のおかげだよ。」 牧野は太い腕を伸ばして、田宮へ猪口をさしつけた。「そう云われると恐れ入るが、とにかくあの時は弱ったよ。お・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
・・・同時に又突然向うのボオトのぐいと後ずさりをする錯覚を感じた。「あの女」は円い風景の中にちょっと顔を横にしたまま、誰かの話を聞いていると見え、時々微笑を洩らしていた。顋の四角い彼女の顔は唯目の大きいと言う以外に格別美しいとは思われなかった。が・・・ 芥川竜之介 「湖南の扇」
・・・残っているウイスキイを勢いよく、ぐいと飲み干すと、急に鬚だらけの顔を近づけて、本間さんの耳もとへ酒臭い口を寄せながら、ほとんど噛みつきでもしそうな調子で、囁いた。「もし君が他言しないと云う約束さえすれば、その中の一つくらいは洩らしてあげ・・・ 芥川竜之介 「西郷隆盛」
・・・しかもそう問い返した後で、婆は新蔵のひるんだ気色を見ると、黒い単衣の襟をぐいと抜いて、「いかにおぬしが揣ろうともの、人間の力には天然自然の限りがあるてや。悪あがきは思い止らっしゃれ。」と、猫撫声を出しましたが、急にもう一度大きな眼を仇白く見・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・と忙しく張上げて念じながら、舳を輪なりに辷らして中流で逆に戻して、一息ぐいと入れると、小波を打乱す薄月に影あるものが近いて、やがて舷にすれすれになった。 飛下りて、胴の間に膝をついて、白髪天頭を左右に振ったが、突然水中へ手を入れると、朦・・・ 泉鏡花 「葛飾砂子」
・・・ 羽織の袖口両方が、胸にぐいと上るように両腕を組むと、身体に勢を入れて、つかつかと足を運んだ。 軒から直ぐに土間へ入って、横向きに店の戸を開けながら、「御免なさいよ。」「はいはい。」 と軽い返事で、身軽にちょこちょこと茶・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・ また髪は、何十度逢っても、姿こそ服装こそ変りますが、いつも人柄に似合わない、あの、仰向けに結んで、緋や、浅黄や、絞の鹿の子の手絡を組んで、黒髪で巻いた芍薬の莟のように、真中へ簪をぐいと挿す、何転進とか申すのにばかり結う。 何と絵蝋・・・ 泉鏡花 「菎蒻本」
・・・ と卓子の上へ、煙管を持ったまま長く露出した火鉢へ翳した、鼠色の襯衣の腕を、先生ぶるぶると震わすと、歯をくいしばって、引立てるようにぐいと擡げて、床板へ火鉢をどさり。で、足を踏張り、両腕をずいと扱いて、「御免を被れ、行儀も作法も云っ・・・ 泉鏡花 「朱日記」
・・・な鼻の穴に、煙は残って、火皿に白くなった吸殻を、ふっふっと、爺は掌の皺に吹落し、眉をしかめて、念のために、火の気のないのを目でためて、吹落すと、葉末にかかって、ぽすぽすと消える処を、もう一つ破草履で、ぐいと踏んで、「ようござらっせえまし・・・ 泉鏡花 「燈明之巻」
出典:青空文庫