・・・庭には何もないと言っても、この海辺に多い弘法麦だけは疎らに砂の上に穂を垂れていた。その穂は僕等の来た時にはまだすっかり出揃わなかった。出ているのもたいていはまっ青だった。が、今はいつのまにかどの穂も同じように狐色に変り、穂先ごとに滴をやどし・・・ 芥川竜之介 「海のほとり」
・・・ 僕は彼の言葉の通り、弘法麦の枯れ枯れになった砂の中へ片手を差しこんで見た。するとそこには太陽の熱がまだかすかに残っていた。「うん、ちょっと気味が悪いね。夜になってもやっぱり温いかしら。」「何、すぐに冷たくなってしまう。」 ・・・ 芥川竜之介 「彼」
・・・(がぶりと呑んで掌別して今日は御命日だ――弘法様が速に金ぴかものの自動車へ、相乗にお引取り下されますてね。万屋 弘法様がお引取り下さるなら世話はないがね、村役場のお手数になっては大変だ。ほどにしておきなさいよ。(店の内に入人形使 (・・・ 泉鏡花 「山吹」
・・・ 真間川の水は堤の下を低く流れて、弘法寺の岡の麓、手児奈の宮のあるあたりに至ると、数町にわたってその堤の上に桜の樹が列植されている。その古幹と樹姿とを見て考えると、真間の桜の樹齢は明治三十年頃われわれが隅田堤に見た桜と同じくらいかと思わ・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
・・・ 今月の『新小説』の和辻哲郎氏が「入宋求法の沙門道元」に就いて書いて居られるが、あの中の「即ち十丈の竿のさきにのぼって手足を放って身心を放下する如き覚悟がなくては」という気持、あの「人を救うための求道ではない、真理の為めに真理を究める求・・・ 宮本百合子 「女流作家として私は何を求むるか」
・・・ ○弘法様が信心なそうな。 ○妾になる女は、丁度見世物の番人のような顔をして、爺さんをとりあつかって居る。 切角いらっしゃったのだから記念に何かお一つ御書きなすってと云う。おかかせなさってと云うことなのである。 無心・・・ 宮本百合子 「「禰宜様宮田」創作メモ」
・・・諺に大師は弘法に奪われたとか云うようなわけで、ファウストと云えばギョオテのファウストとなっているから、ことわるまでもないと考えた。そしてそのままにして置いた。 さて太田さんの事を言ったから、ついでに話してしまうが、太田さんは印行本の扉の・・・ 森鴎外 「訳本ファウストについて」
出典:青空文庫