良平はある雑誌社に校正の朱筆を握っている。しかしそれは本意ではない。彼は少しの暇さえあれば、翻訳のマルクスを耽読している。あるいは太い指の先に一本のバットを楽しみながら、薄暗いロシアを夢みている。百合の話もそう云う時にふと・・・ 芥川竜之介 「百合」
・・・なぜなら、彼は精神生活が、物的環境の変化の後に更生するのを主張する人であるから。結局唯物史観の源頭たるマルクス自身の始めの要求にして最後の期待は、唯物の桎梏から人間性への解放であることを知るに難くないであろう。 マルクスの主張が詮じつめ・・・ 有島武郎 「想片」
・・・結局彼は人間の精神的要求が完全し満足される環境を、物質価値の内容、配当、および使用の更正によって準備しうると固く信じていた人であって、精神的生活は唯物的変化の所産であるにすぎないから、価値的に見てあまり重きをおくべき性質のものではないと観じ・・・ 有島武郎 「想片」
・・・……ところで、奴が死んでみると、俺たち彼の仲間は、奴の作品を最も正しい方法で後世に遺す義務を感ずるのだ。ところで、俺は九頭竜にいった。いやしくもおまえさんが押しも押されもしない書画屋さんである以上、書画屋という商売にふさわしい見識を見せるの・・・ 有島武郎 「ドモ又の死」
・・・ そこでしばらく立って読んで見ていると、校正の間違いなども大分あるようだから、旁々ここに二度の勤めをするこの小説の由来も聞いてみたし、といって、まだ新聞社に出入ったことがないので、一向に様子もわからず、遠慮がち臆病がちに社に入って見ると・・・ 泉鏡花 「おばけずきのいわれ少々と処女作」
・・・ 思案をするじゃが、短気な方へ向くめえよ、後生だから一番方角を暗剣殺に取違えねえようにの、何とか分別をつけさっせえ。 幸福と親御の処へなりまた伯父御叔母御の処へなり、帰るような気になったら、私に辞儀も挨拶もいらねえからさっさと帰りね・・・ 泉鏡花 「葛飾砂子」
・・・「後生だから。」「はい、……あの、こうでございますか。」「上手だ。自分でも髪を結えるね。ああ、よく似合う。さあ、見て御覧。何だ、袖に映したって、映るものかね。ここは引汐か、水が動く。――こっちが可い。あの松影の澄んだ処が。」・・・ 泉鏡花 「小春の狐」
・・・外に姉さんも何も居ない、盛の頃は本家から、女中料理人を引率して新宿停車場前の池田屋という飲食店が夫婦づれ乗込むので、独身の便ないお幾婆さんは、その縁続きのものとか、留守番を兼ねて後生のほどを行い澄すという趣。 判事に浮世ばなしを促された・・・ 泉鏡花 「政談十二社」
・・・「よう、後生だから、一度だって私のいいなり次第になった事はないじゃありませんか。」「はいはい、今夜の処は御意次第。」 そこが地袋で、手が直ぐに、水仙が少しすがれて、摺って、危く落ちそうに縋ったのを、密と取ると、羽織の肩を媚かしく・・・ 泉鏡花 「第二菎蒻本」
・・・「あれ、目の縁はまだしもよ、上は止して、後生だから。」「貴女の襟脚を剃ろうてんだ。何、こんなものぐらい。」「ああ、ああああ、ああーッ。」 と便所の裡で屋根へ投げた、筒抜けな大欠伸。「笑っちゃあ……不可い不可い。」「は・・・ 泉鏡花 「売色鴨南蛮」
出典:青空文庫