・・・――こう自ら歌ったほど、彼の薬を請うものは、上は一藩の老職から、下は露命も繋ぎ難い乞食非人にまで及んでいた。 蘭袋は甚太夫の脈をとって見るまでもなく、痢病と云う見立てを下した。しかしこの名医の薬を飲むようになってもやはり甚太夫の病は癒ら・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・けれども粟野さんに借りた金を二週間以上返さずにいるのは乞食になるよりも不愉快である。…… 十分ばかり逡巡した後、彼は時計をポケットへ収め、ほとんど喧嘩を吹っかけるように昂然と粟野さんの机の側へ行った。粟野さんは今日も煙草の缶、灰皿、出席・・・ 芥川竜之介 「十円札」
・・・親子といえども互いの本質にくると赤の他人にすぎないのだなという淋しさも襲ってきた。乞食にでもなってやろう、彼はその瞬間はたとそう思ったりした。自分の本質のために父が甘んじて衣食を給してくれているとの信頼が、三十にも手のとどく自分としては虫の・・・ 有島武郎 「親子」
・・・ 仁右衛門は脂のつまった大きな眼を手の甲で子供らしくこすりながら、「俺らあすこの小屋さ来たもんだのし。乞食ではねえだよ」といってにこにこした。罪のない顔になった。与十の妻は黙って小屋に引きかえしたが、真暗な小屋の中に臥乱れた子供・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・ けれども、厭な、気味の悪い乞食坊主が、村へ流れ込んだと思ったので、そう思うと同時に、ばたばたと納戸へ入って、箪笥の傍なる暗い隅へ、横ざまに片膝つくと、忙しく、しかし、殆んど無意識に、鳥目を。 早く去ってもらいたさの、女房は自分も急・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・ 串戯にも、つけまわしている様子を、そんな事でも聞かせましたら、夜が寝られぬほど心持を悪くするだろうと思いますから、私もうっかりしゃべりませんでございますから、あの女はただ汚い変な乞食、親仁、あてにならぬ卜者を、愚痴無智の者が獣を拝む位・・・ 泉鏡花 「政談十二社」
・・・今から見れば何でもないように思うが、四十年前俳優がマダ小屋者と称されて乞食非人と同列に賤民視された頃に渠らの技芸を陛下の御眼に触れるというは重大事件で、宮内省その他の反対が尋常でなかったのは想像するに余りがある。その紛々たる群議を排して所信・・・ 内田魯庵 「四十年前」
・・・と思われましたので、お姫さまは、家来を乞食に仕立てて、おつかわしになりました。 いろいろの乞食が、東西、南北、その国の都をいつも往来していますので、その国の人も、これには気づきませんでした。 乞食に姿をかえたお姫さまの使いのものは、・・・ 小川未明 「赤い姫と黒い皇子」
・・・止むなくんば道々乞食をして帰るのだが、こうなってもさすがにまだ私は、人の門に立って三厘五厘の合力を仰ぐまでの決心はできなかった。見えか何か知らぬがやっぱり恥しい。そこで屋台店の亭主から、この町で最も忙しい商店の名を聞いて、それへ行って小僧で・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・文子は女中と二人暮しでもう寝ていましたが、表の戸を敲く音を旦那だと思って明けたところ、まるで乞食同然の姿をした男がしょぼんと立っていたので、びっくりしたようでした。しかし、やっと私だということが判ると、やはりなつかしそうに上げてくれました。・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
出典:青空文庫