・・・これは私の戸籍名なのであるが、下手に仮名を用いて、うっかり偶然、実在の人の名に似ていたりして、そのひとに迷惑をかけるのも心苦しいから、そのような誤解の起らぬよう、私の戸籍名を提供するのである。 津島の勤め先は、どこだっていい。所謂お役所・・・ 太宰治 「家庭の幸福」
なんじら断食するとき、かの偽善者のごとく悲しき面容をすな。 今は亡き、畏友、笠井一について書きしるす。 笠井一。戸籍名、手沼謙蔵。明治四十二年六月十九日、青森県北津軽郡金木町に生れた。亡父は貴族院議員、手・・・ 太宰治 「狂言の神」
・・・ 藤村先生の戸籍名は河内山そうしゅんというのだ。そのような大へんな秘密を、高橋の呼吸が私の耳朶をくすぐって頗る弱ったほど、それほど近く顔を寄せて、こっそり教えて呉れましたが、高橋君は、もともと文学青年だったのです。六、七年まえのことでござい・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・青木大蔵というのは、私の、本来の戸籍名である。「似ています。」「なんですか。」私は、少し、まごついた。 郵便屋は、にこにこ笑っている。雨に濡れながら二人、路上でむき合って立ったまま、しばらく黙っている。へんなものだった。「幸・・・ 太宰治 「新樹の言葉」
・・・既に戸籍は、分けられて在る。しかも私の生まれて育った故郷の家も、いまは不仕合わせの底にある。もはや、私には人に恐縮しなければならぬような生得の特権が、何も無い。かえって、マイナスだけである。その自覚と、もう一つ。下宿の一室に、死ぬる気魄も失・・・ 太宰治 「東京八景」
・・・うちの女房は、戸籍のほうでは、三十四歳という事になっていますが、それはこの世の仮の年齢で、実は、何百歳だかわからぬのです。ずっとずっと昔から、同じ若さを保って、この日本の移り変りを、黙って眺めていたというわけです。それがこの終戦後の、日本は・・・ 太宰治 「女神」
・・・おそらくこれらの店の人にとって、今頃石油ランプの事などを顧客に聞かれるのは、とうの昔に死んだ祖父の事を、戸籍調べの巡査に聞かれるような気でもする事だろう。 ある店屋の主人は、銀座の十一屋にでも行ったらあるかも居〔知〕れないと云って注意し・・・ 寺田寅彦 「石油ランプ」
・・・するとこれが案外親切な巡査で戸籍簿のようなものを引っくり返して小首を傾けながら見ておったが後を見かえって内に昼ねしていた今一人のを呼び起した。交代の時間が来たからと云うて序にこの人にも尋ねてくれたがこれも知らぬ。この巡査の少々横柄顔が癪にさ・・・ 寺田寅彦 「根岸庵を訪う記」
・・・は父の名札の後に見知らぬ人の名が掲げられたばかりに、もう一足も門の中に進入る事ができなくなったのかと思うと、なお更にもう一度あの悪戯書で塗り尽された部屋の壁、その窓下へ掘った金魚の池なぞあらゆる稚時の古跡が尋ねて見たく、現在其処に住んでいる・・・ 永井荷風 「伝通院」
・・・ そもそも最初自分がこの古蹟を眼にしたのは何年ほど前の事であったろう。まだ小学校へも行かない時分ではなかったか。桜のさく或日の午後小石川の家から父と母とに連れられてここまで来るには車の上ながらも非常に遠かった。東京の中ではないような気が・・・ 永井荷風 「霊廟」
出典:青空文庫