・・・それよりも自分に注意を与えるその宗教家などの様子を見ると、かえって何だか不安心なような顔付が見えて居て、あべこべに此方から安心立命の法を教えてでもやりたいと思うのがある。これらは皆死を恐れて居るのである。しかしかくいえばとて自分は全く死を恐・・・ 正岡子規 「病牀苦語」
・・・捕る此方より眺むれば、飛躍してこれを握むと斯うじゃ。何の罪なく眠れるものを、ただ一打ととびかかり、鋭い爪でその柔な身体をちぎる、鳥は声さえよう発てぬ、こちらはそれを嘲笑いつつ、引き裂くじゃ。何たるあわれのことじゃ。この身とて、今は法師にて、・・・ 宮沢賢治 「二十六夜」
・・・海浜ホテルの前あたりには大分人影があるが、川から此方はからりとしていた。陽炎で広い浜辺が短くゆれている……。川ふちを、一匹黒い犬が嗅ぎ嗅ぎやって来た。防波堤の下に並んで日向ぼっこをしながら、篤介がその犬に向って口笛を吹いた。犬は耳を立て此方・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・併し、その根本になっている心持なり態度なりが此方のものとは大変に異っているように見えます。それは一面たしかに国民性から出ているものです。 彼方では一般が商取引風になっているように、やはり文筆を執りつつあるものの間にも、それがあります。作・・・ 宮本百合子 「アメリカ文士気質」
・・・ 行って東風に頼んで来よう。少しはっきり下界の音を運びすぎる。――おやすみなさい、神々。今貴方がたの睡って被居るのは、私が醒てるより人間達のよろこびでしょう。ヴィンダーブラ、この時、悪夢に襲われたように低い呻き声を・・・ 宮本百合子 「対話」
・・・あれよりは此方が余程面白い。石田はこんなことを思っている。 垣の上の女は雄弁家ではある。しかしいかなる雄弁家も一の論題に就いてしゃべり得る論旨には限がある。垣の上の女もとうとう思想が涸渇した。察するに、彼は思想の涸渇を感ずると共に失望の・・・ 森鴎外 「鶏」
・・・そこでは吐き出された炭酸瓦斯が気圧を造り、塵埃を吹き込む東風とチブスと工廠の煙ばかりが自由であった。そこには植物がなかった。集るものは瓦と黴菌と空壜と、市場の売れ残った品物と労働者と売春婦と鼠とだ。「俺は何事を考えねばならぬのか。」と彼・・・ 横光利一 「街の底」
出典:青空文庫