・・・ 陳はほとんど破裂しそうな心臓の鼓動を抑えながら、ぴったり戸へ当てた耳に、全身の注意を集めていた。が、寝室の中からは何の話し声も聞えなかった。その沈黙がまた陳にとっては、一層堪え難い呵責であった。彼は目の前の暗闇の底に、停車場からここへ・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・窓の中を覗いて見ると、几の上の古銅瓶に、孔雀の尾が何本も挿してある。その側にある筆硯類は、いずれも清楚と云うほかはない。と思うとまた人を待つように、碧玉の簫などもかかっている。壁には四幅の金花箋を貼って、その上に詩が題してある。詩体はどうも・・・ 芥川竜之介 「奇遇」
・・・ 三 益軒の知らぬ新時代の精神は年少の書生の放論の中にも如何に溌溂と鼓動していたか! 或弁護 或新時代の評論家は「蝟集する」と云う意味に「門前雀羅を張る」の成語を用いた。「門前雀羅を張る」の成語は支那人の作ったもので・・・ 芥川竜之介 「侏儒の言葉」
・・・だから明日の晩田中君と、世間の恋人同士のように、つれ立って夜の曲馬を見に行く事を考えると、今更のように心臓の鼓動が高くなって来る。お君さんにとって田中君は、宝窟の扉を開くべき秘密の呪文を心得ているアリ・ババとさらに違いはない。その呪文が唱え・・・ 芥川竜之介 「葱」
・・・うす暗い床の間には、寒梅と水仙とが古銅の瓶にしおらしく投げ入れてあった。軸は太祇の筆であろう。黄色い芭蕉布で煤けた紙の上下をたち切った中に、細い字で「赤き実とみてよる鳥や冬椿」とかいてある。小さな青磁の香炉が煙も立てずにひっそりと、紫檀の台・・・ 芥川竜之介 「老年」
・・・フレンチは心臓の鼓動が止まるような心持になって、今こそある事件が始まるのだと燃えるようにそれを待っているのである。 罪人は気を取り直した様子で、広間に這入って来た。一刹那の間、一種の、何物をか期待し、何物をか捜索するような目なざしをして・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・自分の踏んだ草が、自然に刎ね返って、延び上った姿、青い葉の裏に、青い円い体に銀光の斑点の付いている裸虫の止っているのも啼く虫と見えて、ぎょっとしたこと、其の時の小さな心臓の鼓動、かゝる空溝に生えている草叢にすら特有の臭い、其等は、今、こうや・・・ 小川未明 「感覚の回生」
・・・そしてそれがまごうかたなく自分の秘かに欲していた情景であることを知ったとき、彼の心臓はにわかに鼓動を増した。彼はじっと見ていられないような気持でたびたび眼を外らせた。そしてそんな彼の眼がふと先ほどの病院へ向いたとき、彼はまた異様なことに眼を・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・ 心臓の鼓動が激しくなった場合に妻の喉頭に痰が溜って、それを切ろうとして「ウン、ウン!」というのも彼はよく知っていた。 彼は、もう妻の身振りも、顔色も、眼も見る必要がないと思った。すべてが分ったような気がした。が、それを彼女に知らせ・・・ 黒島伝治 「窃む女」
・・・さてしかし骨董という音がどうして古物の義になるかというと、骨董は古銅の音転である、という説がある。その説に従えば、骨董は初は古銅器を指したもので、後に至って玉石の器や書画の類まで、すべて古いものを称することになったのである。なるほど韓駒の詩・・・ 幸田露伴 「骨董」
出典:青空文庫