・・・ 久しい後で、その頃薬研堀にいた友だちと二人で、木場から八幡様へ詣って、汐入町を土手へ出て、永代へ引っ返したことがある。それも秋で、土手を通ったのは黄昏時、果てしのない一面の蘆原は、ただ見る水のない雲で、対方は雲のない海である。路には処・・・ 泉鏡花 「海の使者」
・・・このあたりこそ気勢もせぬが、広場一ツ越して川端へ出れば、船の行交い、人通り、烟突の煙、木場の景色、遠くは永代、新大橋、隅田川の模様なども、同一時刻の同一頃が、親仁の胸に描かれた。「姉や、姉や、」と改めて呼びかけて、わずかに身を動かす背に・・・ 泉鏡花 「葛飾砂子」
・・・ 木場の町にはむかしのままの堀割が残っているが、西洋文字の符号をつけた亜米利加松の山積せられたのを見ては、今日誰かこの処を、「伏見に似たり桃の花」というものがあろう。モーターボートの響を耳にしては、「橋台に菜の花さけり」といわれた渡場を・・・ 永井荷風 「深川の散歩」
・・・ 或日わたくしは洲崎から木場を歩みつくして、十間川にかかった新しい橋をわたった。橋の欄には豊砂橋としてあった。橋向には広漠たる空地がひろがっていて、セメントのまだ生々しい一条の新開道路が、真直に走っていたが、行手には雲の影より外に目に入・・・ 永井荷風 「元八まん」
今日も雨だ。雨樋がタンタンタラ・タラタラ鳴っている。ここでは殆ど一日置き位に雨が降る。雨の日は広い宿屋じゅうがひっそりして、廊下に出ると、木端葺きの湯殿の屋根から白く湯気の立ち騰るのや崖下の渡廊下を溜塗りの重ね箱をかついだ・・・ 宮本百合子 「夏遠き山」
未練も容謝もない様に、天から真直な大雨が降って居る。 静かな、煙る様な春雨も好いには違いないけれ共、斯うした男性的な雨も又好いものだ。 木端ぶきの書斎の屋根では、頭がへこむほどひどい音をたてて居るし、雨だれも滝の様・・・ 宮本百合子 「無題(三)」
出典:青空文庫