・・・ 五尺八寸、十三貫、すなわち痩せているせいで暑さに強い私は、裸で夜をすごすということは余りなく、どんなに暑くてもきちんと浴衣をきて、机の前に坐っているのだが、八月にはいって間もなくの夜明けには、もう浴衣では肌寒い。ひとびとが宵の寝苦しい・・・ 織田作之助 「秋の暈」
・・・ 浜子は世帯持ちは下手ではなかったが、買物好きの昔の癖は抜けきれず、おまけに継子の私が戻ってみれば、明日からの近所の思惑も慮っておかねばならないし、頼みもせぬのに世話を焼きたがるおきみ婆さんの口も怖いと、生みの母親もかなわぬ気のよさを見・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・で、一体君は、そうしていて些とも怖いと思うことはないかね?」「そりゃ怖いよ。何も彼も怖いよ。そして頭が痛くなる、漠然とした恐怖――そしてどうしていゝのか、どう自分の生活というものを考えていゝのか、どう自分の心持を取直せばいゝのか、さっぱ・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・「私もそりゃ、最初から貴方を車夫馬丁同様の人物と考えたんだと、そりゃどんな強い手段も用いたのです。がまさかそうとは考えなかったもんだから、相当の人格を有して居られる方だろうと信じて、これだけ緩慢に貴方の云いなりになって延期もして来たよう・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・それは秋日の下で一種の強い匂いをたてていた。荒神橋の方に遠心乾燥器が草原に転っていた。そのあたりで測量の巻尺が光っていた。 川水は荒神橋の下手で簾のようになって落ちている。夏草の茂った中洲の彼方で、浅瀬は輝きながらサラサラ鳴っていた。鶺・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
・・・これ、後楯がついていると思って、大分強いなと煙管にちょっと背中を突きて、ははははと独り悦に入る。 光代は向き直りて、父様はなぜそう奥村さんを御贔負になさるの。と不平らしく顔を見る。なぜとはどういう心だ。誉めていいから誉めるのではないか。・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・ はて恐いな。お前に恨まれたらば眠くなって来た。と善平はそのまま目を塞ぐ。あれお休みなさってはいやですよ。私は淋しくっていけませんよ。と光代は進み寄って揺り動かす。それなら謝罪ったか。と細く目を開けば、私は謝罪るわけはありませぬ。父様こ・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・突然明い所へ出ると、少女の両眼には涙が一ぱい含んでいて、その顔色は物凄いほど蒼白かったが、一は月の光を浴びたからでも有りましょう、何しろ僕はこれを見ると同時に一種の寒気を覚えて恐いとも哀しいとも言いようのない思が胸に塞えてちょうど、鉛の塊が・・・ 国木田独歩 「牛肉と馬鈴薯」
・・・そして見ると、善にせよ悪にせよ人の精神凝って雑念の無い時は、外物の印象を受ける力もまた強い者と見える。 材木の間から革包を取出し、難なく座敷に持運んで見ると、他の二束も同じく百円束、都合三百円の金高が入っていたのである。書類は請取の類。・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・純な、一すじな、強い恋愛でなくてはならぬ。恋愛から入らずに結婚して、夫婦道の理想を立てようなどというのは、霊のない人間に初めて考えられることであって、たとい円満にそいとげても、結局常識的、事務的な結合にすぎぬ。こういうことはやはり正面からの・・・ 倉田百三 「愛の問題(夫婦愛)」
出典:青空文庫