・・・生れて何も知らぬ吾子の頬に 母よ 絶望の涙をおとすな 格調たかく歌い出されている「頬」忘れかねたる吾子初台に住むときいて通るたびに電車からのび上るのは何のためか 呻きのように母の思いのなり・・・ 宮本百合子 「『静かなる愛』と『諸国の天女』」
・・・しかるに横田家の者どもとかく異志を存する由相聞え、ついに筑前国へ罷越し候。某へは三斎公御名忠興の興の字を賜わり、沖津を興津と相改め候様御沙汰有之候。 これより二年目、寛永三年九月六日主上二条の御城へ行幸遊ばされ妙解院殿へかの名香を御所望・・・ 森鴎外 「興津弥五右衛門の遺書」
・・・六 ナポレオンの腹の上では、今や田虫の版図は径六寸を越して拡っていた。その圭角をなくした円やかな地図の輪郭は、長閑な雲のように微妙な線を張って歪んでいた。侵略された内部の皮膚は乾燥した白い細粉を全面に漲らせ、荒された茫々たる・・・ 横光利一 「ナポレオンと田虫」
・・・青々とした蔓草の巻き付いている、その家に越して来た当座の、ある日の午前であった。己の部屋の窓を叩いたものがある。「誰か」と云って、その這入った男を見て、己は目を大きくみはった。 背の高い、立派な男である。この土地で奴僕の締める浅葱の・・・ 著:ランドハンス 訳:森鴎外 「冬の王」
・・・ 私はガラス越しにじっと窓の外をながめていました。そうしていつまでも身動きをしませんでした。私の眼には涙がにじみ出て来ました。湯加減のいい湯に全身を浸しているような具合に、私の心はある大きい暖かい力にしみじみと浸っていました。私はただ無・・・ 和辻哲郎 「ある思想家の手紙」
・・・がそれでもって狂喜し狂奔し狂苦している。さらにまた新しい「神の子」が五指を屈するほどに出現している。それは少なくとも現実である。そうして眼を開いて見るものには、人間の自然である。 これはドストイェフスキイの真実の内のただ一つに過ぎない。・・・ 和辻哲郎 「「自然」を深めよ」
出典:青空文庫