立てきった障子にはうららかな日の光がさして、嵯峨たる老木の梅の影が、何間かの明みを、右の端から左の端まで画の如く鮮に領している。元浅野内匠頭家来、当時細川家に御預り中の大石内蔵助良雄は、その障子を後にして、端然と膝を重ねた・・・ 芥川竜之介 「或日の大石内蔵助」
・・・うとうと眠気がさして来ても、その声ばかりは、どうしても耳をはなれませぬ。とんと、縁の下で蚯蚓でも鳴いているような心もちで――すると、その声が、いつの間にやら人間の語になって、『ここから帰る路で、そなたに云いよる男がある。その男の云う事を聞く・・・ 芥川竜之介 「運」
・・・小作人が次々に事務所をさして集まって来るのもそのためだったのだ。 事務所に薄ぼんやりと灯が点された。燻製の魚のような香いと、燃えさしの薪の煙とが、寺の庫裡のようにがらんと黝ずんだ広間と土間とにこもって、それが彼の頭の中へまでも浸み透って・・・ 有島武郎 「親子」
・・・ 岩端や、ここにも一人、と、納涼台に掛けたように、其処に居て、さして来る汐を視めて少時経った。 下 水の面とすれすれに、むらむらと動くものあり。何か影のように浮いて行く。……はじめは蘆の葉に縋った蟹が映って、・・・ 泉鏡花 「海の使者」
・・・私にも少し手習をさして……などと時々民子はだだをいう。そういう時の母の小言もきまっている。「お前は手習よか裁縫です。着物が満足に縫えなくては女一人前として嫁にゆかれません」 この頃僕に一点の邪念が無かったは勿論であれど、民子の方にも・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・ 男はそんなものと高をくくられているのかと思えば、僕はまた厭気がさして来た。「お嫁に行って、妾になって、まだその上に女優を欲張ろうとは、お前も随分ふてい奴、さ」「そうとも、さ、こんなにふとったからだだもの、かせげるだけかせぐん、・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・二代目喜兵衛が譲り受けた軽焼屋はいつごろからの店であったか、これも解らぬが、その頃は最早軽焼屋の店は其処にも此処にもあってさして珍らしくなかったようだ。 が、長崎渡りの珍菓として賞でられた軽焼があまねく世間に広がったは疱瘡痲疹の流行が原・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・ そこで女房は死のうと決心して、起ち上がって元気好く、項を反せて一番近い村をさして歩き出した。 女房は真っ直に村役場に這入って行ってこう云った。「あの、どうぞわたくしを縛って下さいまし、わたくしは決闘を致しまして、人を一人殺しました・・・ 著:オイレンベルクヘルベルト 訳:森鴎外 「女の決闘」
・・・それは時計台で、塔の上に大きな時計があって、その時計のガラスに月の光がさして、その時計が真っ青に見えていました。下には窓があって、一つのガラス窓の中には、それは美しいものばかりがならべてありました。金銀の時計や、指輪や、赤・青・紫、いろいろ・・・ 小川未明 「青い時計台」
・・・ところが、坂田はこの対局で「阿呆な将棋をさして」負けたのである。角という大駒一枚落しても、大丈夫勝つ自信を持っていた坂田が、平手で二局とも惨敗したのである。 坂田の名文句として伝わる言葉に「銀が泣いている」というのがある。悪手として妙な・・・ 織田作之助 「可能性の文学」
出典:青空文庫