・・・そこでとうとう盗人のように、そっと家の中へ忍びこむと、早速この二階の戸口へ来て、さっきから透き見をしていたのです。 しかし透き見をすると言っても、何しろ鍵穴を覗くのですから、蒼白い香炉の火の光を浴びた、死人のような妙子の顔が、やっと正面・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・求馬は早速公の許を得て、江越喜三郎と云う若党と共に、当時の武士の習慣通り、敵打の旅に上る事になった。甚太夫は平太郎の死に責任の感を免れなかったのか、彼もまた後見のために旅立ちたい旨を申し出でた。と同時に求馬と念友の約があった、津崎左近と云う・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・あの露路をはいった左側です。」「じゃ君の清元の御師匠さんの近所じゃないか?」「ええ、まあそんな見当です。」 神山はにやにや笑いながら、時計の紐をぶら下げた瑪瑙の印形をいじっていた。「あんな所に占い者なんぞがあったかしら。――・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・ 僕等は発行所へはいる前にあの空罎を山のように積んだ露路の左側へ立ち小便をした。念の為に断って置くが、この発頭人は僕ではない。僕は唯先輩たる斎藤さんの高教に従ったのである。 発行所の下の座敷には島木さん、平福さん、藤沢さん、高田さん・・・ 芥川竜之介 「島木赤彦氏」
・・・「お話しなさい。」「難有う、」「さあ、こちらへ。」「はい、誠にどうも難有う存じます、いいえ、どうぞもう、どうぞ、もう。」「早速だ、おやおや。」「大分丁寧でございましょう。」「そんな皮肉を言わないで、坊やは?」・・・ 泉鏡花 「女客」
・・・ と断って……早速ながら穿替えた、――誰も、背負って行く奴もないものだが、手一つ出すでもなし、口を利くでもなし、ただにやにやと笑って見ているから、勢い念を入れなければならなかったので。……「お幾干。」「分りませんなあ。」「誰・・・ 泉鏡花 「小春の狐」
・・・一体、右側か左側か。」と、とろりとして星を仰ぐ。「大木戸から向って左側でございます、へい。」「さては電車路を突切ったな。そのまま引返せば可いものを、何の気で渡った知らん。」 と真になって打傾く。「車夫、車夫ッて、私をお呼びな・・・ 泉鏡花 「菎蒻本」
・・・中野行を待つ右側も、品川の左側も、二重三重に人垣を造って、線路の上まで押覆さる。 すぐに電車が来た処で、どうせ一度では乗れはしまい。 宗吉はそう断念めて、洋傘の雫を切って、軽く黒の外套の脇に挟みながら、薄い皮の手袋をスッと手首へ扱い・・・ 泉鏡花 「売色鴨南蛮」
・・・母の石塔の左側に父の墓はまだ新しい。母の初七日のおり境内へ記念に植えた松の木杉の木が、はや三尺あまりにのびた、父の三年忌には人の丈以上になるのであろう。畑の中に百姓屋めいた萱屋の寺はあわれにさびしい、せめて母の記念の松杉が堂の棟を隠すだけに・・・ 伊藤左千夫 「紅黄録」
・・・「わたし休まなくとも、ようございますが、早速お母さんの罰があたって、薄の葉でこんなに手を切りました。ちょいとこれで結わえて下さいな」 親指の中ほどで疵は少しだが、血が意外に出た。僕は早速紙を裂いて結わえてやる。民子が両手を赤くしてい・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
出典:青空文庫