・・・もぶり鮓の竹皮包みを手拭にてしばりたるがまさに抜け落ちんとするを平気にて提げ、大分酔がまわったという見えで千鳥足おぼつかなく、例の通り木の影を踏んで走行いて居る。左側を見渡すと限りもなく広い田の稲は黄色に実りて月が明るく照して居るから、静か・・・ 正岡子規 「句合の月」
・・・道の左には地図にある通りの細い沖積地が青金の鉱山を通って来る川に沿って青くけむった稲を載せて北へ続いていた。山の上では薄明穹の頂が水色に光った。俄かに斉田が立ちどまった。道の左側が細い谷になっていてその下で誰かが屈んで何かしていた。見るとそ・・・ 宮沢賢治 「泉ある家」
・・・象は細ういきれいな声で、しくしくしくしく泣き出した。「そら、これでしょう。」すぐ眼の前で、可愛い子どもの声がした。象が頭を上げて見ると、赤い着物の童子が立って、硯と紙を捧げていた。象は早速手紙を書いた。「ぼくはずいぶん眼にあっている・・・ 宮沢賢治 「オツベルと象」
・・・はるかな稲田ばかりの眺めとなった。はるか左側に雄大な奥羽山脈をひかえ、右手に秋田の山々が見える。その間の盆地数十里の間、行けど、行けど、青々と茂った稲ばかりである。 関東の農村は、汽車でとおっても、雑木林をぬけたところには畑があり、そこ・・・ 宮本百合子 「青田は果なし」
・・・同じ事情におかれた評論家の中には、早速内務省へ個別的に自分の思想的立場を釈明した文書を出した人があり、そういう人にはすぐ特別のはからいをしたという役人の言葉であった。 中野も私も、そういうことはしまいということに相談をきめた。そして、一・・・ 宮本百合子 「あとがき(『宮本百合子選集』第五巻)」
・・・極せり、たとい香木は貴からずとも、この方が求め参れと申しつけたる珍品に相違なければ大切と心得候事当然なり、総て功利の念を以て物を視候わば、世の中に尊き物は無くなるべし、ましてやその方が持ち帰り候伽羅は早速焚き試み候に、希代の名木なれば「聞く・・・ 森鴎外 「興津弥五右衛門の遺書」
・・・門口を這入って左側が外壁で、家は右の方へ長方形に延びている。その長方形が表側と裏側とに分れていて、裏側が勝手になっているのである。 東京から来た石田の目には、先ず柱が鉄丹か何かで、代赭のような色に塗ってあるのが異様に感ぜられた。しかし不・・・ 森鴎外 「鶏」
・・・ ツァウォツキイは早速出発して、遠い遠い道を歩いた。とうとうノイペスト製糸工場の前に出た。ツォウォツキイは工場で「こちらで働いていました後家のツァウォツキイと申すものは、ただ今どこに住まっていますでしょうか」と問うた。 住まいは分か・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「破落戸の昇天」
・・・却説去廿七日の出来事は実に驚愕恐懼の至に不堪、就ては甚だ狂気浸みたる話に候へ共、年明候へば上京致し心許りの警衛仕度思ひ立ち候が、汝、困る様之事も無之候か、何れ上京致し候はば街頭にて宣伝等も可致候間、早速返報有之度候。新年言志・・・ 和辻哲郎 「蝸牛の角」
・・・牛込柳町の電車停留場から、矢来下の方へ通じる広い通りを三、四町行くと、左側に、自動車がはいれるかどうかと思われるくらいの狭い横町があって、先は少しだらだら坂になっていた。その坂を一町ほどのぼりつめた右側が漱石山房であった。門をはいると右手に・・・ 和辻哲郎 「漱石の人物」
出典:青空文庫