・・・詩は花やかな対句の中に、絶えず嗟嘆の意が洩らしてある。恋をしている青年でもなければ、こう云う詩はたとい一行でも、書く事が出来ないに違いない。趙生は詩稿を王生に返すと、狡猾そうにちらりと相手を見ながら、「君の鶯鶯はどこにいるのだ。」と云っ・・・ 芥川竜之介 「奇遇」
・・・なるほど洪水じゃなと嗟嘆せざるを得なかった。 亀戸には同業者が多い。まだ避難し得ない牛も多いと見え、そちこちに牛の叫び声がしている。暗い水の上を伝わって、長く尻声を引く。聞く耳のせいか溜らなく厭な声だ。稀に散在して見える三つ四つの燈火が・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・その虫を、サタン、と人は呼んでいます。 発砲せられた。いまは、あさましい芸術家の下等な眼だけが動く。男の眼は、その決闘のすえ始終を見とどけました。そうして後日、高い誇りを以て、わが見たところを誤またず描写しました。以下は、その原文であり・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・その中にも、サタンがいるからである。強さの中にも善が住む。神は、かえってこれを愛する。 そうは思いながらも、やっぱりかれもくだらない男であった。自信がなかった。訪問客たちを拒否することができなかった。おそろしかった。坊主殺せば、と言われ・・・ 太宰治 「花燭」
・・・僕は、あの、サタンではないのか。殺生石。毒きのこ。まさか、吉田御殿とは言わない。だって、僕は、男だもの。」「どうだか。」Kは、きつい顔をする。「Kは、僕を憎んでいる。僕の八方美人を憎んでいる。ああ、わかった。Kは、僕の強さを信じてい・・・ 太宰治 「秋風記」
・・・ひとりの落第生答えて言う「なんじはサタン、悪の子なり」かれ驚きたまい「さらば、これにて別れん」 私は学生たちと別れて家に帰り、ひどい事を言いやがる、と心中はなはだ穏かでなかった。けれども私には、かの落第生の恐るべき言葉を全く否定し去る事・・・ 太宰治 「誰」
・・・そこには、どうやら美貌のサタンが一匹住んでいる。けれども、その辺のことは、ここで軽々しく言い切れることがらでない。 こんな、とりとめないことを、だらだら書くつもりでは、なかったのである。このごろまた、小説を書きはじめて、女性を描くのに、・・・ 太宰治 「女人創造」
・・・即ち高ぶること莫からんために我を撃つサタンの使なり。われ之がために三度まで之を去らしめ給わんことを主に求めたるに、言いたまう、「わが恩恵なんじに足れり。わが能力は、弱きうちに全うせらるればなり。」然ればキリストの能力の我を庇わんために、寧ろ・・・ 太宰治 「パウロの混乱」
・・・ 池へ投身しようとして駆けて行くところで、スクリーンの左端へ今にも衝突しそうに見えるように撮っているのも一種の技巧である。これが反対に画面の右端を左へ向いて駆けって行くのでは迫った感じが出ないであろう。 妖精の舞踊や、夢中の幻影は自・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(3[#「3」はローマ数字、1-13-23])」
・・・どうでも今日は行かんすかの一句と、歌麿が『青楼年中行事』の一画面とを対照するものは、容易にわたくしの解説に左袒するであろう。 わたくしはまた更に為永春水の小説『辰巳園』に、丹次郎が久しく別れていたその情婦仇吉を深川のかくれ家にたずね、旧・・・ 永井荷風 「雪の日」
出典:青空文庫