・・・ ことしの秋は、柳ちゃんを連れて神坂の土を踏みたいとは、かねてから楽しみにしていたことでしたが、いろいろの都合で十一月の初めごろに出かけることはちょっとむつかしくなりました。 さて、きょうは珍しい報告を送る思いでこのおたよりいたしま・・・ 島崎藤村 「再婚について」
・・・向うで人に憐を乞うようなものに、あべこべにこっちから憐を乞おうとしたとは。さて老人はその場に立っていながら、忽ち体を背後へ向けた。それは自分の顔に表れる感情の闘を青年に見せまいとしたのである。「ええ、この若い男の胸の苦しいのは、自分の胸の苦・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・いかな窓でも夏の景色ほどな景色は見せてくれませんから。さて夏の中でもすぐれた美しい聖ヨハネ祭に、そのおばあさんが畑と牧場とを見わたしていますと、ひょっくり鳩が歌い始めました。声も美しくエス・キリスト、さては天国の歓喜をほめたたえて、重荷に苦・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:有島武郎 「真夏の夢」
・・・ 弱く、あさましき人の世の姿を、冷く三つ列記したが、さて、そういう乃公自身は、どんなものであるか。これは、かの新人競作、幻燈のまちの、なでしこ、はまゆう、椿、などの、ちょいと、ちょいとの手招きと変らぬ早春コント集の一篇たるべき運命の・・・ 太宰治 「あさましきもの」
・・・金貸しには交際があるが、それはこの店を禁物にしていて近寄らない。さて文士連と何の触接点があるかと云うと、当時流行のある女優を、文士連も崇拝しているし、中尉達も崇拝しているに過ぎない。中尉達の方では、それに金を掛けているだけが違う。それでも竜・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
・・・頼みに思った極右党はやはり頼み甲斐のない男であった。さてこれからどうしよう。なんだっておれはロシアを出て来たのだろう。今さら後悔しても駄目である。幸にも国にはまだ憲法が無い。その代りには、どこへ行って見ても、穴くらい幾らでもある。溝も幾らも・・・ 著:ディモフオシップ 訳:森鴎外 「襟」
・・・ロシア映画のスクリーンのかなたにはいつでも茫漠たるシベリアの野の幻がつきまとっている。さて日本の映画はどうであろう。数年前の統計によるとフィルムの生産高の数字においてはわが国ははるかにフランスやドイツを凌駕しているようであるが、これらの映画・・・ 寺田寅彦 「映画芸術」
・・・諸君がとんぼとりにつかうもちは、その芋をつぶすときに出来るおねばのことであるが、さてそのこんにゃく屋さんは、はたらき者の爺さんと婆さんが二人きりで、いつも爺さんが、「ホイ、きたか――」 と云って私にニコニコしてくれた。「きょうは・・・ 徳永直 「こんにゃく売り」
・・・ さて、午過ぎからは、家中大酒盛をやる事になったが、生憎とこの大雪で、魚屋は河岸の仕出しが出来なかったと云う処から、父は家のを殺して、出入の者共を饗応する事にした。一同喜び、狐の忍入った小屋から二羽の鶏を捕えて潰した。黒いのと、白い斑あ・・・ 永井荷風 「狐」
・・・ さて当時は理想を目前に置き、自分の理想を実現しようと一種の感激を前に置いてやるから、一種の感激教育となりまして、知の方は主でなく、インスピレーションともいうような情緒の教育でありました。なんでも出来ると思う、精神一到何事不成というよう・・・ 夏目漱石 「教育と文芸」
出典:青空文庫