・・・この時験温器を挟んで居る事を思い出したから、出して見たが卅八度しかなかった。 今度は川の岸の高楼に上った。遥に川面を見渡すと前岸は模糊として煙のようだ。あるともないとも分らぬ。燈火が一点見える。あれが前岸の家かも知れぬ。汐は今満ちきりて・・・ 正岡子規 「句合の月」
・・・茶店の女主人と見えるのは年頃卅ばかりで勿論眉を剃っておるがしんから色の白い女であった。この店の前に馬が一匹繋いであった。余は女主人に向いて鳥井峠へ上るのであるが馬はなかろうかと尋ねると、丁度その店に休でいた馬が帰り馬であるという事であった。・・・ 正岡子規 「くだもの」
時は午後八時頃、体温は卅八度五分位、腹も背も臀も皆痛む、 アッ苦しいナ、痛いナ、アーアー人を馬鹿にして居るじゃないか、馬鹿、畜生、アッ痛、アッ痛、痛イ痛イ、寝返りしても痛いどころか、じっとして居ても痛いや。 アーアーいやにな・・・ 正岡子規 「煩悶」
・・・猫の写生画 明治卅二年十月九日「飯待つ間」といふ原稿書きをへし処に、彼子猫はやうやくいたづら子の手を逃れたりとおぼしくゆうゆうと我家に上り我横に寐居る蒲団の上、丁度我腹のあたりに蹲りてよごれ乱れたる毛を嘗め始めた・・・ 正岡子規 「飯待つ間」
・・・の中には、大門をひかえ、近所の出入りにも車にのり、いつも切れる様な仕立て下しの物ばかりを身につけて居ながら、月末には正玄関から借金取りがキッキとやって来る様な、栄蔵には判断のつきかねる様な、二重にも、三重にも裏打った生活をして居る人が沢山あ・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
・・・冬の凍った三重窓に青く月の光がさして、夜の十二時にクレムリから大時計の音楽の一くさりが響いて来た。窓の前は、モスク夕刊新聞の屋上で、クラブになっていた。着いた年の冬は、硝子張りの屋根が破れたまま鉄骨がむき出しになっていた。雪がそこから降る。・・・ 宮本百合子 「カメラの焦点」
・・・はドイツのシレジアにおいて、国家、資本家、地主と三重の重荷を負わされている「織匠」が耐えかねて反抗した、その事実を主題としたものであった。社会が自由と解放を求める高揚した雰囲気の中で、良人カールとともに、朝から夜まで勤労しながら、ぬけきれな・・・ 宮本百合子 「ケーテ・コルヴィッツの画業」
・・・「一月卅一日の夜」「筍」これらはそれぞれの角度から日本の教育者がとじこめられて来た過去の非人間な事情と、現在の苦しい経済事情に生きるなかにもひとしお苦痛な先生というものの特殊な立場を語っている。「出発」は教員養成所の老猾な旧師を中心に、若い・・・ 宮本百合子 「選評」
・・・「おそいから心配しちゃった。三重衝突でつぶされちゃったかと思ったわよ」 その辺には号外やら夕刊がとり散らされてある。どれにも、各所に籠城した罷業従業員達の動静や街上風景を写真ニュースで報じ、「怖し羞し背広の車掌」「非常時運転がこぼす・・・ 宮本百合子 「電車の見えない電車通り」
・・・べものにならない複雑さと大きさで、じかに政府のやりかたとくみうちして生きていかなければならなくなってきている農村のきょうの実状の中では、農村の主婦、母、未亡人たちすべてが、ただ黙々と野良、家事、育児と三重の辛苦を負うて目先の働きに追われてい・・・ 宮本百合子 「願いは一つにまとめて」
出典:青空文庫