・・・「もうゆうべ大しくじりをしたら、あたしでも何をしたかわからないのだから。」 しかし夫は何とも言わずにさっさと会社へ出て行ってしまった。たね子はやっとひとりになると、その日も長火鉢の前に坐り、急須の湯飲みについであった、ぬるい番茶を飲・・・ 芥川竜之介 「たね子の憂鬱」
・・・治まる聖代のありがたさに、これぞというしくじりもせず、長わずらいにもかからず、長官にも下僚にも憎まれもいやがられもせず勤め上げて来たのだ。もはやこうなれば、わしなどはいわゆる聖代の逸民だ。恩給だけでともかくも暮らせるなら、それをありがたく頂・・・ 国木田独歩 「二老人」
・・・果して屈静源は有司に属して追理しようとしたから、王廷珸は大しくじりで、一目散に姿を匿してしまって、人をたのんで詫を入れ、別に偽物などを贈って、やっと牢獄へ打込まれるのを免れた。 談はこれだけで済んでも、かなり可笑味もあり憎味もあって沢山・・・ 幸田露伴 「骨董」
・・・若い花やかなインスピレエションが欲しさに、私は大しくじりを致しました。最初の晩、ごはんのお給仕に出た女中は二十七八歳の、足を外八文字にひらいて歩く、横に広いからだのひとでした。眼が細く小さく、両頬は真赤でおかめの面のようでありました。何を考・・・ 太宰治 「風の便り」
・・・私は、しくじりたくなかった。よしんばしくじっても、そのあと、そ知らぬふりのできるような賢明の方法を択ばなければ。未遂で人に見とがめられ、縄目の恥辱を受けたくなかった。それからどれほど歩いたのか。百種にあまる色さまざまの計画が両国の花火のよう・・・ 太宰治 「狂言の神」
・・・彼がどのようなしくじりをしても、せせら笑って彼を許した。そしてわきを向いたりなどしながら言うのであった。人間、気のきいたことをせんと。そう呟いてから、さも抜け目のない男のようにふいと全くちがった話を持ちだすのである。彼はずっと前からこの父を・・・ 太宰治 「猿面冠者」
・・・もう少しで、お前と同じような大しくじりをするところまでいったんだ。本当だよ。じっさい、そこまでいったんだ。しかし、俺は逃げたよ。うん、逃げた。それでも、女というものは、いったん思い込んだ男を忘れかねると見えるな。うわっはっは。いまでも手紙を・・・ 太宰治 「親友交歓」
・・・こんどは、しくじりました。薬が、ききすぎました。」夫人が、家出をしたというのである。その原因が、実に馬鹿げている。数年前に、夫人の実家が破産した。それから夫人は、妙に冷く取りすました女になった。実家の破産を、非常な恥辱と考えてしまったらしい・・・ 太宰治 「水仙」
・・・淀橋の区役所に勤めていて、ことしは三十四だか五だかになって、赤ちゃんも去年生れたのに、まだ若い者のつもりで、時々お酒を飲みすぎて、しくじりをする事もあるようです。来る度毎に、母から少しずつお金をもらって帰るようです。大学へはいった頃には、小・・・ 太宰治 「千代女」
・・・それはれいの、天狗のしくじりみたいな、グロテスクな、役者の似顔絵なのである。「似ているでしょう? 先生にそっくりですよ。きょうは先生が来るというので、特にこれをここに掛けて置いたのです。」 私はあまり、うれしくなかった。 私たち・・・ 太宰治 「母」
出典:青空文庫