・・・英国史上あらゆる女皇の不器量な大理石像を見るだろう。止った遊覧自動車のまわりは顔面と声だけ夜から見分けのつく大小の子供達で鈴なりである。 ――ペニーおくれよ、小父さん! ――お金! お金おくれ! 外套の前をきっちり合わせ肩をいか・・・ 宮本百合子 「ロンドン一九二九年」
・・・はなかった。しかし日清戦争前後に生活した一葉が描いている婦人の世界というものはどういうものであったろう。有名な「たけくらべ」は詩情に溢れた作品である。主人公達、少年少女としての朧ろな情感の境地は叙情的に、繊細に美しく描かれていて、独自な味い・・・ 宮本百合子 「私たちの建設」
・・・ ゴーデルヴィルの市場は人畜入り乱れて大雑踏をきわめている。この群集の海の表面に現われ見えるのは牛の角と豪農の高帽と婦人の帽の飾りである。喚ぶ声、叫ぶ声、軋る声、相応じて熱閙をきわめている。その中にも百姓の強壮な肺の臓から発する哄然たる・・・ 著:モーパッサン ギ・ド 訳:国木田独歩 「糸くず」
・・・プラグマチスムスの哲学史上の地位と云うのがある。或る助教授の受け持っているフリイドリヒ・ヘッベルと云う文芸史方面のものがある。ずっと飛び離れて、神学科の寺院史や教義史がある。学期ごとにこんな風で、専門の学問に手を出した事のない子爵には、どん・・・ 森鴎外 「かのように」
・・・「スチルネルは哲学史上に大影響を与えている人で、無政府主義者と云われている人達と一しょにせられては可哀相だ。あれは本名を Johann Kaspar Schmidt と云って、伯林で高等学校の教師をしていた。有名な、唯一者とその所有を出・・・ 森鴎外 「食堂」
・・・ Casanova や Louvet de Couvray の本を訳して、風俗を壊乱すると云われたのなら、よしやそう云う本に文明史上の価値はあるとしても、遠慮が足りなかったというだけの事はあるだろう。 しかし所謂危険なる洋書とはそん・・・ 森鴎外 「沈黙の塔」
・・・此の潜める生来の彼の高貴な稟性は、終に彼の文学から我が文学史上に於て曾て何者も現し得なかった智的感覚を初めて高く光耀させ得た事実をわれわれは発見する。かくしてそれは、清少納言の官能的表徴よりも遥に優れた象徴的感覚表徴となって現れた。それは彼・・・ 横光利一 「新感覚論」
・・・集るものは瓦と黴菌と空壜と、市場の売れ残った品物と労働者と売春婦と鼠とだ。「俺は何事を考えねばならぬのか。」と彼は考えた。 彼は十銭の金が欲しいのだ。それさえあれば、彼は一日何事も考えなくて済むのである。考えなければ彼の病は癒るのだ・・・ 横光利一 「街の底」
・・・その内にひそむ虚偽、不公平、私情などに対して正義の情熱の燃え上がるのを禁じ得なかった。これは先生として当然な事である。「博士」は多くの場合に対世間的な根の浅い名声の案山子である。博士であると否とにかかわらず学者の価値はその仕事の価値によって・・・ 和辻哲郎 「夏目先生の追憶」
・・・星を数えつつ井戸に落ちた人、骨と皮とになるまで黙然として考えた人は史上の立て物ではない。しかしながら過去数千年の人類の経路は一日としてこの問題から離るるを許さなかった。西行はために健脚となり信長は武骨な舞いを舞った。神農もソクラテスもカント・・・ 和辻哲郎 「霊的本能主義」
出典:青空文庫