・・・その間少しも姿勢をくずさないでキチンとしていた。一体行儀の好い男で、あぐらを掻くッてな事は殆んどなかった。いよいよ坐り草臥びれると能く立膝をした。あぐらをかくのは田舎者である、通人的でないと思っていたのだろう。 それが皮切で、それから三・・・ 内田魯庵 「斎藤緑雨」
・・・が、芸術となると二葉亭はこの国士的性格を離れ燕趙悲歌的傾向を忘れて、天下国家的構想には少しも興味を持たないでやはり市井情事のデリケートな心理の葛藤を題目としている。何十年来シベリヤの空を睨んで悶々鬱勃した磊塊を小説に托して洩らそうとはしない・・・ 内田魯庵 「二葉亭追録」
・・・たゞ見る人が謙虚にして、それに対して考うるだけの至誠があれば足りるものだ。凡そ、そこには、子供と成人の区別すらないにちがいない。 真に、美しいもの、また正しいものは、いつでも、無条件にそうあるのであって、それは、理窟などから、遙かに超越・・・ 小川未明 「名もなき草」
・・・乾燥した窮屈な姿勢だった。座っていても、いやになるほど大柄だとわかった。男の方がずっと小柄で、ずっと若く見え、湯殿のときとちがって黒縁のロイド眼鏡を掛けているため、一層こぢんまりした感じが出ていた。顔の造作も貧弱だったが、唇だけが不自然に大・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・それで、私たちは、秋山さんが私の肩に手を掛け、私は背の高い秋山さんの顔を見上げながら笑っているという姿勢をしばらく続けていましたが、やがて写真班がマグネシュームをたこうとしたとたん、待ってくれと声がして、俺もいっしょに撮ってくれと、割りこむ・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・たり、間口の広い油屋があったり、赤い暖簾の隙間から、裸の人が見える銭湯があったり、ちょうど大阪の高台の町である上町と、船場島ノ内である下町とをつなぐ坂であるだけに、寺町の回顧的な静けさと、ごみごみした市井の賑かさがごっちゃになったような趣き・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・女の肌のように白い背中には、一という字の刺青が施されているのだ。一――1――一代。もしかしたらこの男があの「競馬の男」ではないか、一の字の刺青は一代の名の一字を取ったのではないかと、咄嗟の想いに寺田は蒼ざめて、その刺青は……ともうたしなみも・・・ 織田作之助 「競馬」
・・・や「市井事」や「銀座八丁」の逞しい描写を喜ぶ読者は、「弥生さん」には失望したであろう。私もそのような意味では失望した。しかし、読者の度胆を抜くような、そして抜く手も見せぬような巧みに凝られた書出しよりも、何の変哲もない、一見スラスラと書かれ・・・ 織田作之助 「四月馬鹿」
武田さんは大阪の出身という点で、私の先輩であるが、更に京都の第三高等学校出身という点でもまた私の先輩である。しかも、武田さんは庶民作家として市井事物一点張りに書いて来た。その点でも私は血縁を感じている。してみれば、文壇でも・・・ 織田作之助 「武田麟太郎追悼」
・・・している見事さは、市井事もの作家の武田麟太郎氏が私淑したのも無理はないと思われるくらいで、僕もまたこのような文学にふとしたノスタルジアを感ずるのだ。すくなくとも秋声の叫ばぬスタイル、誇張のない態度は、僕ら若い世代にとってかなわぬものの一つだ・・・ 織田作之助 「文学的饒舌」
出典:青空文庫