彼は人気者になら誰とでも会いたがった。しかし、人気者は誰も彼に会おうとしなかった。いうまでもなく彼は一介の無名の市井人だった。 野坂参三なら既にして人気者であり、民主主義の本尊だから、誰とでも会うだろう。彼はわざわざ上・・・ 織田作之助 「民主主義」
・・・彼等は家庭に帰れば皆善良なる市井人であり、職場では猫の口が喋る如く民主主義を唱え、杓子の耳が聴く如くそれに耳を傾けている筈だが、しかし、人間を愛することを忘れて、いかなる民主主義者があろうか。 復員者に冷たく当りたがる人々の気持はむろん・・・ 織田作之助 「夜光虫」
・・・ 虫も殺さぬ顔をしているが、二の腕に刺青があり、それを見れば、どんな中学生もふるえ上ってしまう。女学生は勿論である。 そこをすかさず、金をせびる。俗に「ヒンブルを掛ける」のだ。 それ故の「ヒンブルの加代」だが、べつに「兵古帯お加・・・ 織田作之助 「夜光虫」
・・・横井は椅子に腰かけたまゝでその姿勢を執って、眼をつぶると、半分とも経たないうちに彼の上半身が奇怪な形に動き出し、額にはどろ/\汗が流れ出す。横井はそれを「精神統一」と呼んだ。「……でな、斯う云っちゃ失敬だがね、僕の観察した所ではだ、君の・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・ 私はこう言って羽織と足袋を脱ぎ、袴をつけて、杉の樹間の暗い高い石段を下り、そこから隣り合っている老師のお寺の石段を、慄える膝頭を踏ん張り、合掌の姿勢で登って行ったのであった。春以来二三度独参したことがあるがいつも頭からひやかされるので・・・ 葛西善蔵 「父の出郷」
・・・――吉田はほとんど身動きもできない姿勢で身体を鯱硬張らせたままかろうじて胸へ呼吸を送っていた。そして今もし突如この平衡を破るものが現われたら自分はどうなるかしれないということを思っていた。だから吉田の頭には地震とか火事とか一生に一度遭うか二・・・ 梶井基次郎 「のんきな患者」
・・・今度は片肱をつき、尻餅をつき、背中まで地面につけて、やっとその姿勢で身体は止った。止った所はもう一つの傾斜へ続く、ちょっと階段の踊り場のようになった所であった。自分は鞄を持った片手を、鞄のまま泥について恐る恐る立ち上った。――いつの間にか本・・・ 梶井基次郎 「路上」
・・・と言って志村はそのまま再び腰を下ろし、もとの姿勢になって、「書き給え、僕はその間にこれを直すから。」 自分は画き初めたが、画いているうち、彼を忌ま忌ましいと思った心は全く消えてしまい、かえって彼が可愛くなって来た。そのうちに書き終っ・・・ 国木田独歩 「画の悲み」
・・・ 然し彼は資性篤実で又能く物に堪え得る人物であったから、この苦悩の為めに校長の職務を怠るようなことは為ない。平常のように平気の顔で五六人の教師の上に立ち数百の児童を導びいていたが、暗愁の影は何処となく彼に伴うている。 ・・・ 国木田独歩 「富岡先生」
・・・学生の常なる姿勢は一に勉強、二に勉強、三に勉強でなくてはならぬ。なるほど恋愛はこの姿勢を破らせようとするかもしれぬ。だがその姿勢が悩みのために、支えんとしても崩されそうになるところにこそ学窓の恋の美しさがあるのであって、ノートをほうり出して・・・ 倉田百三 「学生と生活」
出典:青空文庫