・・・彼等の恥なく義なく勇なきは、実に市井の一文士に如かざりき。彼軍人的教練なる者是に於て一毫の価値ある耶。 孔子曰く、自らなして直くんば千万人と雖も我往かんと。此意気精神、唯一文士ゾーラに見て堂々たる軍人に見ざるは何ぞや。 或は曰く、長・・・ 幸徳秋水 「ドレフュー大疑獄とエミール・ゾーラ」
・・・先生の文章は先生の至誠至忠の人格の発露であった。是れ先生の文章の常に真気惻々人を動かす所以であって、而も陽春白雪利する者少き所以である。而して単に其文字から言っても、漢文の趣味の十分に解せられない今日に於て、多数人士の愛読する所とならぬは当・・・ 幸徳秋水 「文士としての兆民先生」
・・・私の姉がそれをやった時分に、私はまだ若くて、年取った人たちの世界というものをのぞいて見たように思ったことを覚えているが、ちょうど今の私がそれと同じ姿勢で。 私はもう一度、自分の手を裏返しにして、鏡でも見るようにつくづくと見た。「自分・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・鴉は羽ばたきもせず、頭も上げず、凝然たる姿勢のままで、飢渇で力の抜けた体を水に落した。そして水の上でくるくると輪をかいて流れて行った。七人の男は鴉の方を見向きもしない。 どこをも、別荘の園のあるあたりをも、波戸場になっているあたりをも、・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・まゆう、椿、などの、ちょいと、ちょいとの手招きと変らぬ早春コント集の一篇たるべき運命の不文、知りつつも濁酒三合を得たくて、ペン百貫の杖よりも重き思い、しのびつつ、ようやく六枚、あきらかにこれ、破廉恥の市井売文の徒、あさましとも、はずかしとも・・・ 太宰治 「あさましきもの」
・・・ 音の効果的な適用は、市井文学、いわば世話物に多い様である。もともと下品なことにちがいない。それ故にこそ、いっそう、恥かしくかなしいものなのであろう。聖書や源氏物語には音はない。全くのサイレントである。・・・ 太宰治 「音に就いて」
・・・ と男は、白樺の蔭から一歩踏み出し、あやうく声を出しかけて、見ると、今しも二人の女が、拳銃持つ手を徐々に挙げて、発砲一瞬まえの姿勢に移りつつあったので、はっと声を呑んでしまいました。もとより、この男もただものでない。当時流行の作家であります・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・この男は、よわい既に不惑を越え、文名やや高く、可憐無邪気の恋物語をも創り、市井婦女子をうっとりさせて、汚れない清潔の性格のように思われている様子でありますが、内心はなかなか、そんなものではなかったのです。初老に近い男の、好色の念の熾烈さに就・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・とがはじまり、見事な、血したたるが如き紅葉の大いなる枝を肩にかついで、下腹部を殊更に前へつき出し、ぶらぶら歩いて、君、誰にも言っちゃいけないよ、藤村先生ね、あの人、背中一ぱいに三百円以上のお金をかけて刺青したのだよ。背中一ぱいに金魚が泳いで・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・私は市井の作家である。私の物語るところのものは、いつも私という小さな個人の歴史の範囲内にとどまる。之をもどかしがり、或いは怠惰と罵り、或いは卑俗と嘲笑するひともあるかも知れないが、しかし、後世に於いて、私たちのこの時代の思潮を探るに当り、所・・・ 太宰治 「苦悩の年鑑」
出典:青空文庫