・・・と口癖のように言っていた、その言葉の裏にもやはり酌んでも尽きない憂国の至誠が溢れていたのである。米国講演の旅から帰った時新聞記者に話したという我学界への苦言にも、日本の学者が慢心するのを心配している心持が十分に酌み取られる。 同じような・・・ 寺田寅彦 「工学博士末広恭二君」
・・・現代のシナ音では、熱は jo の第四声である。「如」がジョでありニョであり、また「然」がゼンでありまたネンであると同じわけである。蒙古語の夏は jn である。朝鮮語の「ナツ」は昼である。しかし朝鮮語で夏を意味する言葉は「ヨールム」で熱がヨー・・・ 寺田寅彦 「言葉の不思議」
・・・例えば当時の富人の豪奢の実況から市井裏店の風景、質屋の出入り、牢屋の生活といったようなものが窺われ、美食家や異食家がどんなものを嗜んだかが分かり、瑣末なようなことでは、例えば、万年暦、石筆などの存在が知られ、江戸で蝿取蜘蛛を愛玩した事実が窺・・・ 寺田寅彦 「西鶴と科学」
・・・それは、全身にいろいろの刺青を施した数名の壮漢が大きな浴室の中に言葉どおりに異彩を放っていたという生来初めて見た光景に遭遇したのであった。いわゆる倶梨伽羅紋々ふうのものもあったが、そのほかにまたたとえば天狗の面やおかめの面やさいころや、それ・・・ 寺田寅彦 「蒸発皿」
・・・暴風にテントを飛ばされたり、落雷のために負傷したり、そのほか、山くずれ、洪水などのために一度や二度死生の境に出入しない測量部員は少ないそうである。それにもかかわらず技術官で生命をおとした人はほとんどないというのは畢竟多年の経験による周到な準・・・ 寺田寅彦 「地図をながめて」
・・・内閣にしてもその閣僚の一人一人がいかに人間として立派な人がそろっていても、その施政方針がいかに理想的であっても、為政の手首が堅すぎては国運と民心の弦線は決して妙音を発するわけには行かないのではないか。 官海遊泳術というものについてその道・・・ 寺田寅彦 「「手首」の問題」
・・・ 自分の洋行の留守中に先生は修善寺であの大患にかかられ、死生の間を彷徨されたのであったが、そのときに小宮君からよこしてくれた先生の宿の絵はがきをゲッチンゲンの下宿で受け取ったのであった。帰朝して後に久々で会った先生はなんだか昔の先生とは・・・ 寺田寅彦 「夏目漱石先生の追憶」
・・・忙中に閑ある余裕の態度であり、死生の境に立って認識をあやまらない心持ちである。「風雅の誠をせめよ」というは、私を去った止水明鏡の心をもって物の実相本情に観入し、松のことは松に、竹のことは竹に聞いて、いわゆる格物致知の認識の大道から自然に誠意・・・ 寺田寅彦 「俳諧の本質的概論」
・・・そしてそれは死生の境に出入する大患と、なんらかの点において非凡な人間との偶然な結合によってのみ始めて生じうる文辞の宝玉であるからであろう。 岩波文庫の「仰臥漫録」を夏服のかくしに入れてある。電車の中でも時々読む。腰かけられない時は立った・・・ 寺田寅彦 「備忘録」
・・・ ……民衆の旗、赤旗は…… 一人の男は、跳び上るような姿勢で、手を振っている……と、お初は、思わず声をあげた。「アッ、利助が、あんた利助が?」 お初は、利平の腕をグイグイ引ッ張った。「ナニ利助?」 まったく! 目を瞠・・・ 徳永直 「眼」
出典:青空文庫