・・・ 私は、無智の、食うや食わずの貧農の子孫である。私の家が多少でも青森県下に、名を知られはじめたのは、曾祖父惣助の時代からであった。その頃、れいの多額納税の貴族院議員有資格者は、一県に四五人くらいのものであったらしい。曾祖父は、そのひとり・・・ 太宰治 「苦悩の年鑑」
・・・ ロクソンには日本人の子孫が三千人もいたので、シロオテにとって何かと便利であった。シロオテは所持の貨幣を黄金に換えた。ヤアパンニアでは黄金を重宝にするという噂話を聞いたからであった。日本の衣服をこしらえた。碁盤のすじのような模様がついた・・・ 太宰治 「地球図」
・・・とにかく、なんらかの方法でこの保存ができたとして、そうして数十世紀後のわれらの子孫が今のわれわれの幽霊の行列をながめるであろうということは、おもしろくもおかしくもまたおそろしくも悲しくもあり、また頼もしくも心細くもあるであろう。 は・・・ 寺田寅彦 「映画時代」
・・・この驚くべき技巧がもっともっと自由に応用され、観客が次第にそれに慣らされて、そうしてそれに固有な効果を十二分に感受することのできる日が来るとしたら、その日から人間の子孫にとっては全く新しい世界が生まれるであろう。 映画における「時」につ・・・ 寺田寅彦 「映画の世界像」
・・・のもできるかもしれない。災難を予知したり、あるいはいつ災難が来てもいいように防備のできているような種類の人間だけが災難を生き残り、そういう「ノア」の子孫だけが繁殖すれば知恵の動物としての人間の品質はいやでもだんだん高まって行く一方であろう。・・・ 寺田寅彦 「災難雑考」
・・・そうして自分がそれらのビーイングの正統の子孫であると考えてみた。そう思う事によってこの国土に対する自分の愛着の感情は増しても減りはしないような気がする。 最後に「長慶子」という曲を奏した。慶祝の意を表わしたもので、参会の諸員退出の時にこ・・・ 寺田寅彦 「雑記(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・この次の時代をつくるわれわれの子孫といえども、果してよく前の世のわれわれのように廉価を以て山海の美味に飽くことができるだろうか。昭和廿二年十月 ○ 松杉椿のような冬樹が林をなした小高い岡の麓に、葛飾という京・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
・・・ 多病の親から多病ならざる子孫の生れいづる事はまず稀であろう。病患は人生最大の不幸であるとすれば、この不幸はその起らざる以前に妨止せねばならない。わたくしは自ら制しがたい獣慾と情緒とのために、幾度となく婦女と同棲したことがあったが、避姙・・・ 永井荷風 「西瓜」
・・・その時島田と大野氏とは北品川に住んでいる渋江氏が子孫の家には、なお珍書の存している事を語り、日を期してわたしにも同行を勧めた。されば渋江氏の蔵書家であった事だけを知ったのは、わたしの方が森先生よりも時を早くしていたわけである。唖々子は二子と・・・ 永井荷風 「梅雨晴」
・・・日本の諸国にあるこの種の部落的タブーは、おそらく風俗習慣を異にした外国の移住民や帰化人やを、先祖の氏神にもつ者の子孫であろう。あるいは多分、もっと確実な推測として、切支丹宗徒の隠れた集合的部落であったのだろう。しかし宇宙の間には、人間の知ら・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
出典:青空文庫