・・・当座の中こそ訪問や見物に忙がしく、夙昔の志望たる日露の問題に気焔を吐きもしようし努力もするだろうが、暫らくしたら多年の抱懐や計画や野心や宿望が総て石鹸玉の泡のように消えてしまって索然とするだろう。欧洲戦が初まる前までどころか、恐らく二、三年・・・ 内田魯庵 「二葉亭追録」
・・・ 朝の陽が蒼黝い女の皮膚に映えて、鼻の両脇の脂肪を温めていた。 ちらとそれを見た途端、なぜだか私はむしろ女があわれに思えた。かりに女が不幸だとしても、それはいわゆる男の教養だけの問題ではあるまいと思った。「何べん解消しようと思っ・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・就中、法科志望の点取虫の多いのには、げっそりさせられた。彼等は教師の洒落や冗談までノートに取り、しかもその洒落や冗談を記憶して置く必要があるかどうか、即ちそれが試験に出るかどうかと質問したりした。彼等の関心は試験に良い点を取ることであり、東・・・ 織田作之助 「髪」
・・・ 五代は丹造のきょときょとした、眼付きの野卑な顔を見て、途端に使わぬ肚をきめたが、八回無駄足を踏ませた挙句、五時間待たせた手前もあって、二言三言口を利いてやる気になり、「――お前の志望はいったい何だ?」 と、きくと丹造はすかさず・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・かつては豊満な脂肪で柔かった肩も今は痛々しいくらい痩せて、寺田は気の遠くなるほど悲しかったが、一代ももう寺田に肩を噛まれながら昔の喜びはなく、痛い痛いと泣く声にも情痴の響きはなかった。やっと看護婦が帰って来たが、のろまな看護婦がアンプルを切・・・ 織田作之助 「競馬」
・・・ことに大槻は作家を志望していて、茫洋とした研究に乗り出した行一になにか共通した刺激を感じるのだった。「どうだい、で、研究所の方は?」「まあぼちぼちだ」「落ちついているね」「例のところでまだ引っ掛かってるんだ。今度の学会で先生・・・ 梶井基次郎 「雪後」
・・・の統計で肺結核に対する極貧者の死亡率や上流階級の者の死亡率というようなものを意味していないので、また極貧者と言ったり上流階級と言ったりしているのも、それがどのくらいの程度までを指しているのかはわからないのであるが、しかしそれは吉田に次のよう・・・ 梶井基次郎 「のんきな患者」
・・・そこには豚の脂肪や、キャベツや、焦げたパン、腐敗した漬物の臭いなどが、まざり合って、充満していた。そこで働いている炊事当番の皮膚の中へまでも、それ等の臭いはしみこんでいるようだった。「豚だって、鶏だってさ、徴発して来るのは俺達じゃないか・・・ 黒島伝治 「橇」
・・・藁布団の上に畳んだ敷布と病衣は、身体に纒われて出来た小皺と、垢や脂肪で、他人が着よごしたもののようにきたなかった。「あゝ、あゝ、まるで売り切りの牛か馬のようだ。好きなまゝにせられるんだ!」 彼等は、すっかりおさらばを告げて出て行った・・・ 黒島伝治 「氷河」
・・・ 坑内で死亡すると、町の警察署から検視の警官と医者が来るまで、そのまゝにして置かなければならない。その上、坑内で即死した場合、埋葬料の金一封だけではどうしてもすまされない。それ故、役員は、死者を重傷者にして病院へかつぎこませる。これが常・・・ 黒島伝治 「土鼠と落盤」
出典:青空文庫