・・・ そくそくとして心に沁みる名文である。こうしたやさしき情緒の持主なればこそ、われわれは彼の往年の猛烈な、火を吐くような、折伏のための戦いを荒々しと見ることはできないのである。また彼のすべての消息を見て感じることはその礼の行きわたり方であ・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・そしてこれは心に沁みる切実なことである。世の中には対人関係、人と人との触れ合いについてかなり淡白な関心しか持っていない人々もあるが、しかし人間の精神生活というものはその大部分、特に深い部分を対人関係に持っているといわねばならぬ。対人関係に気・・・ 倉田百三 「人生における離合について」
・・・――今までそうでもなかったのに、隣りの独房でさせているカタ、コトという物音が、沁みるような深さで感ぜられる。隣りの同志は「全協」だろうか、Pの人だろうか、Yだろうか、それとも党員だろうか……?――秋深く隣は何をする人ぞ。 扉が突然ガチャ・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・私にも、あんなに慕って泣いて呼びかけて呉れる弟か妹があったならば、こんな侘しい身の上にならなくてよかったのかも知れない、と思われて、ねぎの匂いの沁みる眼に、熱い涙が湧いて出て、手の甲で涙を拭いたら、いっそうねぎの匂いに刺され、あとからあとか・・・ 太宰治 「燈籠」
・・・道端の熊笹が雨に濡れているのが目に沁みるほど美しい。どこかの大きな庭園を歩いているような気もする。有名な河童橋は河風が寒く、穂高の山塊はすっかり雨雲に隠されて姿を見せない。この橋の両側だけに人間の香いがするが、そこから六百山の麓に沿うて二十・・・ 寺田寅彦 「雨の上高地」
・・・どんよりと吉野紙に包まれたような空の光も、浜辺のような白い砂地のかがやきも、見るもののすべての上に灰色の悲しみが水の滲みるように拡がって行った。「あなたはどうしてそんなに悲しそうでしょう。」 連れの女はこう云って聞いた。「何も悲・・・ 寺田寅彦 「異郷」
・・・のある退屈さを知らない代りに、頭に沁みる何物も得られないかもしれない。 自分等が商売がら何よりも眼につくのは物理学の中等教科書の内容である。限られた紙幅の中に規定されただけの項目を盛り込まなければならないという必要からではあろうが、実・・・ 寺田寅彦 「マーカス・ショーとレビュー式教育」
・・・母親も油井もいやで、がっかりして、風も身に沁みる、空の高さも、そこに飛び交う蜻蛉も身に沁みる。魂が空気の中にむきだしになっていた。 長い時間が経った。 みのえは、背後で荒っぽく草を歩みしだく跫音を聞いた。みのえは自分の場所からその方・・・ 宮本百合子 「未開な風景」
三四日梅雨のように降りつづいた雨がひどい地震のあと晴れあがった。 五時すぎて夕方が迫っているのに 雀がチク チ チチと楽しそうに囀り、まだ濡れて軟かく重い青葉は眼に沁みる程 蒼々として見える。どこでホーホケキョと鶯の声・・・ 宮本百合子 「無題(十)」
出典:青空文庫