・・・だから一つカッフェに勤めていても、お君さんとお松さんとでは、祝儀の収入が非常に違う。お松さんは勿論、この収入の差に平かなるを得ない。その不平が高じた所から、邪推もこの頃廻すようになっている。 ある夏の午後、お松さんの持ち場の卓子にいた外・・・ 芥川竜之介 「葱」
・・・一本ずつ眼をくぎって行くプラットフォオムの柱、置き忘れたような運水車、それから車内の誰かに祝儀の礼を云っている赤帽――そう云うすべては、窓へ吹きつける煤煙の中に、未練がましく後へ倒れて行った。私は漸くほっとした心もちになって、巻煙草に火をつ・・・ 芥川竜之介 「蜜柑」
・・・ 八 少なからぬ借金で差引かれるのが多いのに、稼高の中から渡される小遣は髪結の祝儀にも足りない、ところを、たといおも湯にしろ両親が口を開けてその日その日の仕送を待つのであるから、一月と纏めてわずかばかりの額ではな・・・ 泉鏡花 「葛飾砂子」
・・・お客から祝儀とか貰うようには行かんぞな。」「でも、」 と蕈が映す影はないのに、女の瞼はほんのりする。 安値いものだ。……私は、その言い値に買おうと思って、声を掛けようとしたが、隙がない。女が手を離すのと、笊を引手繰るのと一所で、・・・ 泉鏡花 「小春の狐」
・・・ああ、叶屋の二階で田之助を呼んだ時、その男衆にやった一包の祝儀があったら、あのいじらしい娘に褄の揃ったのが着せられましょうものなぞと、愚痴も出ます。唯今の姿を罰だと思って罪滅しに懺悔ばなしもいいまする。私もこう申してはお恥かしゅうございます・・・ 泉鏡花 「政談十二社」
・・・あまつさえ……その年は何処も陽気が悪かったので、私は腹を痛めていた。祝儀らしい真似もしない悲しさには、柔い粥とも誂えかねて、朝立った福井の旅籠で、むれ際の飯を少しばかり。しくしく下腹の痛む処へ、洪水のあとの乾旱は真にこたえた。鳥打帽の皺びた・・・ 泉鏡花 「栃の実」
・・・浴衣の上だけれど、紋の着いた薄羽織を引かけていたが、さて、「改めて御祝儀を申述べます。目の下二尺三貫目は掛りましょう。」とて、……及び腰に覗いて魂消ている若衆に目配せで頷せて、「かような大魚、しかも出世魚と申す鯉魚の、お船へ飛込みましたとい・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・「わざと……いささかだけれど御祝儀だ。」 肩を振って、拗ねたように、「要らねえよ。――私こんなもの。……旦那さん。――旅行さきで無駄な銭を遣わねえがいいだ。そして……」 と顔を向け直すと、ちょっと上まぶたで客を視て、「旦・・・ 泉鏡花 「みさごの鮨」
・・・「世渡りのためとは申しながら……前へ御祝儀を頂いたり、」 と口籠って、「お恥かしゅう存じます。」と何と思ったか、ほろりとした。その美しさは身に染みて、いまだ夢にも忘れぬ。 いや、そこどころか。 あの、籠の白い花を忘れまい・・・ 泉鏡花 「妖術」
・・・それからは何もかも他の言うなりになって、霜月半に祝儀をしたけれど、民子の心持がほんとうの承知でないから、向うでもいくらかいや気になり、民子は身持になったが、六月でおりてしまった。跡の肥立ちが非常に悪くついに六月十九日に息を引き取った。病中僕・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
出典:青空文庫