・・・を忘れて夢中になった例は余り多くなかったので、さしもの翁も我を折って作者を見縊って冷遇した前非を悔い、早速詫び手紙を書こうと思うと、山出しの芋掘書生を扱う了簡でドコの誰とも訊いて置かなかったので住居も姓氏も解らなかった。いよいよ済まぬ事をし・・・ 内田魯庵 「露伴の出世咄」
・・・ 男は、夜おそくまで、障子を開け放して、ランプの下で仕事をすることもありました。夏になると、いつも障子が開けてありましたから、外を歩く人は、この室の一部を見上げることもできました。 ちょうど隣の家の二階には、中学校へ、教えに出る博物・・・ 小川未明 「あほう鳥の鳴く日」
・・・はすっぱの娘は、はじめのうちこそ、その帰りを待ったけれど、生死がわからなくなると、はやくも、あきらめてしまいました。なぜなら、秋から、冬にかけて、すさまじい風が吹きつのって、沖が暴れ狂ったからでした。彼女は、いつしか、他の青年を恋するように・・・ 小川未明 「海のまぼろし」
・・・ たとえ、其の人の事業は、年をとってから完成するものだとはいうものゝ、すでに、其の少時に於て、犯し難き片鱗の閃きを見せているものです。若くして死んだ、詩人や、革命家は、その年としては、不足のないまで、何等か人生のために足跡を残していまし・・・ 小川未明 「机前に空しく過ぐ」
・・・ 事件の異常なる場合に際して、私達のそれに出遇った時の感情や、意志がまた著しく働くということも事実であるが其人の人格は、またいかなる小事に対しても発揮されるでありましょう。たとえば旅行をして遠くへ行かなくとも永久の自然は其の町に、其の村・・・ 小川未明 「芸術は生動す」
・・・虚無の自然と生死する人生とを関連する不思議な鍵です。芸術の中でも、童話は小説などと異って、直ちに、現実の生命に飛び込む魔術を有しています。 童話は、全く、純真創造の世界であります。本能も、理性も、この世界にあっては、最も自由に、完美に発・・・ 小川未明 「『小さな草と太陽』序」
・・・ まず廊下に面した障子をあけた。それから廊下に出て、雨戸をあけようとした。暫らくがたがたやってみたが、重かった。雨戸は何枚か続いていて、端の方から順おくりに繰っていかねば駄目だと、判った。そのためには隣りの部屋の前に立つ必要がある。私は・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・それともうひとつ想いだすのは、浜子が法善寺の小路の前を通る時、ちょっと覗きこんで、お父つあんの出たはるのはあの寄席やと花月の方を指しながら、私たちに言って、きゅうにペロリと舌を出したあの仕草です。 やがて楽天地の建物が見えました。が、浜・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・を筆写したり暗記したりする勉強の仕方は、何だかみそぎを想わせるような古い方法で、このような禁慾的精進はその人の持っている文学的可能性の限界をますます狭めるようなもので、清濁あわせのむ壮大な人間像の創造はそんな修業から出て来ないのではないかと・・・ 織田作之助 「大阪の可能性」
・・・一人の私服警官が粉煙草販売者を引致してゆく途中、小路から飛び出して来た数名がバラバラツと取りかこみ、各自手にした樫棒で滅茶苦茶に打ち素手の警官はたちまちぶつ倒れて水溜りに顔を突つ込んだ。死んだやうになつてゐた数秒、しかし再び意識をとり戻した・・・ 織田作之助 「大阪の憂鬱」
出典:青空文庫