・・・また旅をするようになってから、ある時は全世界が輝き渡って薔薇の花が咲き、鐘の声が聞えて余所の光明に照されながら酔心地になっていた事がある。そういう時はあらゆる物事が身に近く手に取るように思われて己も生きた世界の中の生きた一人と感じたものだ。・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・ふせぎしぶきのぬれにうつるみあかし寒灯ともすれば沈灯火かきかきて苧をうむ窓に霰うつ声砂月涼そとの浜千さとの目路に塵をなみすずしさ広き砂上の月薔薇羽ならす蜂あたたかに見な・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
・・・の火がはげしく戦争をして、地雷火をかけたり、のろしを上げたり、またいなずまがひらめいたり、光の血が流れたり、そうかと思うと水色の焔が玉の全体をパッと占領して、今度はひなげしの花や、黄色のチュウリップ、薔薇やほたるかずらなどが、一面風にゆらい・・・ 宮沢賢治 「貝の火」
・・・と云ってその手をふりはらいましたが、実は、はじめから歌いたくて来たのですから、ことに楽隊の人たちが歌うなら伴奏しようというように身構えしたので、ミーロは顔いろがすっかり薔薇いろになってしまって眼もひかり息もせわしくなってしまいました。 ・・・ 宮沢賢治 「ポラーノの広場」
・・・保修工事が焦眉の問題であった。私は苦心して手頃な石ころを一杯拾って来た。傘は夙に放ぽり出し、土の流れを防ごうとして、一本一本根の囲りをこの小石で取繞んだ。が、瞬く間に情なしの広い空地の水は石をも越した。石ころも、根も水づかりだ。葉は益々悲し・・・ 宮本百合子 「雨と子供」
・・・無骨な、それでも優しい暢やかな円天井を持った籠の中で、小鳥等は崩れる薔薇の響をきき乍ら、暖かい夢を結ぶようになった。 顔を洗いに行こうとして、何時ものように籠傍を通ると、今朝はどうしたのか、ひどく粟が乱雑になって居るのに心付いた。籠の中・・・ 宮本百合子 「餌」
・・・その玉は所謂紅玉色で、硝子で薔薇カットが施こされていて、直径五分ばかりのものだ。紅玉色の硝子は、濃い黒い束ね髪の上にあった。髪の下に、生え際のすんなりした低い額と、心持受け口の唇とがある。納戸の着物を着た肩があって、そこには肩あげがある。・・・ 宮本百合子 「毛の指環」
・・・の人民的保管の必要は焦眉の急である。美術的国宝を社寺とひきはなすことも緊急である。〔一九四九年三月〕 宮本百合子 「国宝」
・・・某が買い求め候香木、畏くも至尊の御賞美を被り、御当家の誉と相成り候事、存じ寄らざる儀と存じ、落涙候事に候。 その後某は御先代妙解院殿よりも出格の御引立を蒙り、寛永九年御国替の砌には、三斎公の御居城八代に相詰め候事と相成り、あまつさえ殿御・・・ 森鴎外 「興津弥五右衛門の遺書」
・・・某が買求め候香木、畏くも至尊の御賞美を被り、御当家の誉と相成り候事、存じ寄らざる仕合せと存じ、落涙候事に候。 さりながら一旦切腹と思定め候某、竊に時節を相待ちおり候ところ、御隠居松向寺殿は申に及ばず、その頃の御当主妙解院殿よりも出格の御・・・ 森鴎外 「興津弥五右衛門の遺書(初稿)」
出典:青空文庫