・・・「父母は今初めて事あらたに申すべきに候はねども、母の御恩の事殊に心肝に染みて貴くおぼえ候。飛鳥の子を養ひ、地を走る獣の子にせめられ候事、目も当てられず、魂も消えぬべくおぼえ候。其につきても母の御恩忘れ難し。……日蓮が母存生しておはせしに・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・めまぐるしい文学上の主張や流行の変化を田舎にいて一々知り得る由もないが、わけてもこの頃のあわただしさは、東京にいても、二三カ月仕事に打ちこんで新刊の雑誌新聞に目を通すひまなしにいようものなら、取り残されて分らなくなるのではあるまいか。 ・・・ 黒島伝治 「田舎から東京を見る」
・・・ 家の中も、通りもお正月らしく森閑としていた。寒さはひどかったが、風はなかった。いつもは、のび/\と寝ていられるのだが、清吉は、どうも、今、寝ている気がしなかった。彼は寝衣の上に綿入れを引っかけて外に出た。門松は静かに立っていた。そこに・・・ 黒島伝治 「窃む女」
・・・いよいよ森閑として、読者は、思わずこの世のくらしの侘びしさに身ぶるいをする、という様な仕組みになっていた。 同じ扉の音でも、まるっきり違った効果を出す場合がある。これも作者の名は、忘れた。イギリスのブルウストッキングであるということだけ・・・ 太宰治 「音に就いて」
・・・なんの感激も無しに立って、「卓に向い、その時たまたま記憶に甦って来た曾遊のスコットランドの風景を偲ぶ詩を二三行書くともなく書きとどめ、新刊の書物の数頁を読むともなく読み終ると、『いやに胸騒ぎがするな』と呟きながら、小机の抽斗から拳銃を取り出・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・正直に申し上げると、あなたのお言葉の全部が、かならずしも私にとって頂門の一針というわけのものでも無かったし、また、あなたの大声叱咤が私の全身を震撼させたというわけでも無かったのです。決して負け惜しみで言っているわけではありません。あなたが御・・・ 太宰治 「風の便り」
・・・千も二千も色様様の人が居るのに、歌舞伎座は、森閑としていた。そっと階段をおり、外へ出た。巷には灯がついていた。浅草に行きたく思った。浅草に、ひさごやというししの肉を食べさせる安食堂があった。きょうより四年まえに、ぼくが出世をしたならば、きっ・・・ 太宰治 「狂言の神」
・・・芹川さんは、おいでになる度毎に何か新刊の雑誌やら、小説集やらを持って来られて、いろいろと私に小説の筋書や、また作家たちの噂話を聞かせて下さるのですが、どうも余り熱中しているので、可笑しいと思って居りましたところが、或る日とうとう芹川さんは、・・・ 太宰治 「誰も知らぬ」
・・・で、とても助からぬと見て竹青は、一声悲しく高く鳴いて数百羽の仲間の烏を集め、羽ばたきの音も物凄く一斉に飛び立ってかの舟を襲い、羽で湖面を煽って大浪を起し忽ち舟を顛覆させて見事に報讐し、大烏群は全湖面を震撼させるほどの騒然たる凱歌を挙げた。竹・・・ 太宰治 「竹青」
・・・ ふところから、新刊の文芸雑誌を出して、パラパラ頁を繰って、その、僕の名前の出ているところを捜している様子である。「やめろ!」 こらえ切れず、僕は怒声を発した。打ち据えてやりたいくらいの憎悪を感じた。「そんなものを、読むもん・・・ 太宰治 「眉山」
出典:青空文庫