・・・僕は「新潮」の「人の印象」をこんなに長く書いた事はない。それが書く気になったのは、江口や江口の作品が僕等の仲間に比べると、一番歪んで見られているような気がしたからだ。こんな慌しい書き方をした文章でも、江口を正当に価値づける一助になれば、望外・・・ 芥川竜之介 「江口渙氏の事」
・・・ただ肝腎の家をはじめ、テエブルや椅子の寸法も河童の身長に合わせてありますから、子どもの部屋に入れられたようにそれだけは不便に思いました。 僕はいつも日暮れがたになると、この部屋にチャックやバッグを迎え、河童の言葉を習いました。いや、彼ら・・・ 芥川竜之介 「河童」
・・・ 彼が新調の煙管を、以前ほど、得意にしていない事は勿論である。第一人と話しをしている時でさえ滅多に手にとらない。手にとっても直にまたしまってしまう。同じ長崎煙草が、金無垢の煙管でのんだ時ほど、うまくないからである。が、煙管の地金の変った・・・ 芥川竜之介 「煙管」
・・・この紀元節に新調した十八円五十銭のシルク・ハットさえとうにもう彼の手を離れている。……… 保吉は人のこみ合ったプラットフォオムを歩きながら、光沢の美しいシルク・ハットをありありと目の前に髣髴した。シルク・ハットは円筒の胴に土蔵の窓明りを・・・ 芥川竜之介 「十円札」
・・・その友達は矢張西洋人で、しかも僕より二つ位齢が上でしたから、身長は見上げるように大きい子でした。ジムというその子の持っている絵具は舶来の上等のもので、軽い木の箱の中に、十二種の絵具が小さな墨のように四角な形にかためられて、二列にならんでいま・・・ 有島武郎 「一房の葡萄」
・・・ お貞はかの女が時々神経に異変を来して、頭あたかも破るるがごとく、足はわななき、手はふるえ、満面蒼くなりながら、身火烈々身体を焼きて、恍として、茫として、ほとんど無意識に、されど深長なる意味ありて存するごとく、満身の気を眼にこめて、その・・・ 泉鏡花 「化銀杏」
・・・ と、お町の手を取って、位置を直して、慎重に言った。「それにね、首……顔がないんです。あの、冷いほど、真白な、乳も、腰も、手足も残して。……微塵に轢かれたんでしょう。血の池で、白魚が湧いたように、お藻代さんの、顔だの、頬だのが。・・・ 泉鏡花 「古狢」
・・・岡村が持って来た清朝人の画を三幅程見たがつまらぬものばかりであった、頭から悪口も云えないで見ると、これも苦痛の一つで、見せろなど云わねばよかったと後悔する。何もかも口と心と違った行動をとらねばならぬ苦しさ、予は僅かに虚偽の淵から脱ける一策を・・・ 伊藤左千夫 「浜菊」
・・・ この女から妻は吉弥の家の状態をも聴き、僕の推知していた通り吉弥の帰るのを待っている男があって、今度もそれが拵えてやった新調の衣物を一揃えお袋が持って来たということまで分った。引かされるのを披露にまわる時の用意になるのであったろう。・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・実業熱が長じて待合入りを初めてから俄かにめかし出したが、或る時羽織を新調したから見てくれと斜子の紋付を出して見せた。かなり目方のある斜子であったが、絵甲斐機の胴裏が如何にも貧弱で見窄らしかったので、「この胴裏じゃ表が泣く、最少し気張れば宜か・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
出典:青空文庫