・・・今の教育は多くの生徒を一教場の内に集めて、与えられたる教科を教うるようであるが、それでは各個人に就て深い注意を与えて各の個性の開発伸長を計ることは誠に困難な事だ。 然しそれも教師の心得次第では全く出来ぬ事ではない。ここにして思えば昔の漢・・・ 小川未明 「人間性の深奥に立って」
・・・によって復活し、文壇の「新潮」は志賀直哉の亜流的新人を送迎することに忙殺されて、日本の文壇はいまもなお小河向きの笹舟をうかべるのに掛り切りだが、果してそれは編輯者の本来の願いだろうか、小河で手を洗う文壇の潔癖だろうか。バルザックの逞しいあら・・・ 織田作之助 「可能性の文学」
・・・そしてそれも余程慎重に突かぬと、相手に手抜きをされる惧れがある。だから、第一手に端の歩を突くのは、まるで滅茶苦茶で、乱暴といおうか、気が狂ったといおうか、果して相手の木村八段は手抜きをした。坂田は後手だったから、ここで手抜きされると、のっけ・・・ 織田作之助 「可能性の文学」
・・・ただ身長を計る時、髪の毛が邪魔になるので検査官が顔をしかめただけであった。 身体検査が済んで最後に徴兵官の前へ行くと、徴兵官は私が学校をやめた理由をきいた。病気したからだと私は答えたが、満更嘘を言ったわけではない。私は学校にいた時呼吸器・・・ 織田作之助 「髪」
・・・ まず「新潮」八月号の「聴雨」からですが、高木卓氏が終りが弱いといわれるのも、あなたが題が弱いといわれるのも、つまりは結びの一句が「坂田は急ににこにこした顔になった。そうして雨の音を聞いた」となっていることをいわれたのであろうと思います・・・ 織田作之助 「吉岡芳兼様へ」
・・・ 壁の衣紋竹には、紫紺がかった派手な色の新調の絽の羽織がかかっている。それが明日の晩着て出る羽織だ。そして幸福な帰郷を飾る羽織だ。私はてれ隠しと羨望の念から、起って行って自分の肩にかけてみたりした。「色が少しどうもね。……まるで芸者・・・ 葛西善蔵 「遁走」
・・・いたしおり候 しかし今は弁当官吏の身の上、一つのうば車さえ考えものという始末なれど、祖父様には貞夫もはや重く抱かれかね候えば、乳母車に乗せてそこらを押しまわしたきお望みに候間近々大憤発をもって一つ新調をいたすはずに候 一輛のうば車で・・・ 国木田独歩 「初孫」
・・・したがってその際の心遣いは慎重で思いやり深くなければならないのである。 こうした別離は男女関係ばかりではない。朋友も師弟も理義によっては恩愛を捨てて別離しなければならないこともある。かくしてニーチェはワグネルと別れ、日蓮は道善房と別れね・・・ 倉田百三 「人生における離合について」
・・・を決めるのに慎重な態度を取りながら、やがて、 「旦那、竿は一本にして、みよしの真正面へ巧く振込んで下さい」と申しました。これはその壺以外は、左右も前面も、恐ろしいカカリであることを語っているのです。客は合点して、「あいよ」とその言葉通り・・・ 幸田露伴 「幻談」
・・・それにしても、どうかして私はせっかく新調したものを役に立てさせたいと思って、「洋服を着るんなら、とうさんがまた築地小劇場をおごる。」 と言ってみせた。すると、お徳がまた娘の代わりに立って来て、「築地へは行きたいし、どうしても洋服・・・ 島崎藤村 「嵐」
出典:青空文庫